「パダパダ 波の少女」
わたしたちは波にたゆたって生きている。
うーん、ものすごく複雑だ。
「あの問題」に触れることなしに「福岡と釜山」の関係性、
うまく書けへんもんな、ホークスがシーズン終盤、
大事なところで「あのチーム」にズタボロにやられることを聞くと
なおさらどう書いたらいいのか、正直わからなくなる。
正直、「あのチーム」と「あのチーム」に対しては
猛烈なさつ(以下略。を持って戦わなければいけない、と言いたい。
そしてホークスには「計算高さ」はあっても「道徳心の欠けた」
「計算高さ」がない、おまけに「目先の一勝」にもこだわれていない。
「プロ野球」というか「スポーツ」が「政治的ゲーム」になっていることは
重々承知、がだ、ホークスと「あのチーム」が噛み合わないとな、
うまく学べないことや所が多すぎて、現状、不幸すぎる。
そんなことなんか関係なく、福岡と釜山は
徐々に「一衣帯水」になっては来ている、という現実を
ここ数ヶ月、演劇の現場で目の当たりにする。
6月はグレコローマンスタイル、7月はHANARO project、
そして8月9月のgo-to、そしてパダパダとさかせのアウェイ戦。
福岡と釜山を行ったり来たりして「演劇」という同じ分野で
「少し違って少し同じ」文化を持つ場所へと赴いて
自らの「身体言語」で向こうの人間を納得させていく。
そういう「たたかい」というものが始まったのかな。
そういう「たたかい」の裏でわたしは「行かなければいけない」
ではなく、「行きたい」というところに一度戻らないとマズイよな。
「しなければならない」というものに取り付いていたから
色んな意味で常軌を逸した事となり、精神的にも肉体的にも
負担がかかってしまったのかな。
こういうことをつらつらと考えつつ、福岡と釜山の15から18歳の
「女の子」の「夢」や「現実」という客入れ音を聞いていたら
「国」、あるいは「都市」というものは「わたしたち」を形成する
ひとつの「要素」であって、それ以上でもなく、それ以下でもない。
一番大切、というか重要なのはどのような「家庭環境」で、
どのような「生育場所」で、どのような「文化を超えたもの」で
わたしが育っていたか、いわゆる「生育歴」というものかもしれない。
この「生育歴」というものがちゃんとしていたら
「将来、私はこうしたい」という意味付けやそうするための理由、
さらにはたくさんの方策、方法論を他者に対して開示できる。
私はこの「生育歴」があまりよろしくなく、何かずっとさまよっている。
そういうことまで知らないものだから「なぜ、わたしはさまよっているのか」
ということすらわからず、この福岡という街どころか、わたしの人生を
ずっと、ずっとさまよいすぎて心も、身体も疲れ果ててしまった。
十分に私の心に関わる大事なことを引っ張りだされて本編。
まあ、日本人と韓国人がひとつ同じ船に乗り合わせている、
ということは「呉越同舟」ということではなくて、
ごくごくアタリマエのことなのですよ、と思わせる導入部。
そして釜山でニモカが使えますよ、というセリフに、釜山のハナロ、
ソウルのT-Moneyのスペックはソニーのフェリカではなく、
たしか、シーメンスかフィリップスのicカードシステムなんだよなぁ。
香港の八達通(オクトパス)はソニーのフェリカなのだが。
ここでひとつ「噛み合わない」ところ発見。
がだ、pitapaは技術の壁を乗り越えて期間限定ながらも
ソウルのT-Moneyと「片相互乗り入れ」を果たした。
なんか、ある意味「翻弄感」というやつをコンテンポラリーダンスと
いうか、コーディネーションでじわりじわりと見せていき、
翻弄されながらも「隠していた」、あるいは「隠されていた」
本当のわたし、というものを見せていく。
現実空間ではくじらの群れがうようよして行く手を阻む。
前にも、うしろにも進めない状況で日本人の少女と
韓国人の少年がうっかり出会い、「ゆるキャラコンテスト」と
いうものを通じて、これまた「事に臨む」上での「食い違い」という
ものをこれでもか、と客を巻き込みながら見せている。
隠し味として第一次世界大戦、第二次世界大戦という
「人間」というものが犯した「過ち」を「鬼っ子」あるいは
「トゲピ」という「生まれてくるはずのない子」が混ぜくるように
わたしたちの意識に働きかけ、結局は「噛み合わないこと」が
戦争を引き起こすのだろ、ヒト、というものは何時かは滅ぶ。
滅ぶからこそ、「噛み合わない」ところは多少なりともあって
そこをどう埋めていくか、「憎しみ」というもので埋めていくのか、
「侮蔑」というもので埋めていくのか、それじゃあんまりだから
「愛」で埋めていくのか「歓び」で「感謝」で埋めていくのか、
課題でもあり、楽しみでもあるのかもしれない。
そこまで行き着いて船はようやらやっと進み行き、
挙げ句の果てには海底トンネルだわ。
いつの間にか親子、いつの間にか一衣帯水、
今だ自由は噛み合わないが。
・・・これはこれで、まあ、いいか。
うーん、ものすごく複雑だ。
「あの問題」に触れることなしに「福岡と釜山」の関係性、
うまく書けへんもんな、ホークスがシーズン終盤、
大事なところで「あのチーム」にズタボロにやられることを聞くと
なおさらどう書いたらいいのか、正直わからなくなる。
正直、「あのチーム」と「あのチーム」に対しては
猛烈なさつ(以下略。を持って戦わなければいけない、と言いたい。
そしてホークスには「計算高さ」はあっても「道徳心の欠けた」
「計算高さ」がない、おまけに「目先の一勝」にもこだわれていない。
「プロ野球」というか「スポーツ」が「政治的ゲーム」になっていることは
重々承知、がだ、ホークスと「あのチーム」が噛み合わないとな、
うまく学べないことや所が多すぎて、現状、不幸すぎる。
そんなことなんか関係なく、福岡と釜山は
徐々に「一衣帯水」になっては来ている、という現実を
ここ数ヶ月、演劇の現場で目の当たりにする。
6月はグレコローマンスタイル、7月はHANARO project、
そして8月9月のgo-to、そしてパダパダとさかせのアウェイ戦。
福岡と釜山を行ったり来たりして「演劇」という同じ分野で
「少し違って少し同じ」文化を持つ場所へと赴いて
自らの「身体言語」で向こうの人間を納得させていく。
そういう「たたかい」というものが始まったのかな。
そういう「たたかい」の裏でわたしは「行かなければいけない」
ではなく、「行きたい」というところに一度戻らないとマズイよな。
「しなければならない」というものに取り付いていたから
色んな意味で常軌を逸した事となり、精神的にも肉体的にも
負担がかかってしまったのかな。
こういうことをつらつらと考えつつ、福岡と釜山の15から18歳の
「女の子」の「夢」や「現実」という客入れ音を聞いていたら
「国」、あるいは「都市」というものは「わたしたち」を形成する
ひとつの「要素」であって、それ以上でもなく、それ以下でもない。
一番大切、というか重要なのはどのような「家庭環境」で、
どのような「生育場所」で、どのような「文化を超えたもの」で
わたしが育っていたか、いわゆる「生育歴」というものかもしれない。
この「生育歴」というものがちゃんとしていたら
「将来、私はこうしたい」という意味付けやそうするための理由、
さらにはたくさんの方策、方法論を他者に対して開示できる。
私はこの「生育歴」があまりよろしくなく、何かずっとさまよっている。
そういうことまで知らないものだから「なぜ、わたしはさまよっているのか」
ということすらわからず、この福岡という街どころか、わたしの人生を
ずっと、ずっとさまよいすぎて心も、身体も疲れ果ててしまった。
十分に私の心に関わる大事なことを引っ張りだされて本編。
まあ、日本人と韓国人がひとつ同じ船に乗り合わせている、
ということは「呉越同舟」ということではなくて、
ごくごくアタリマエのことなのですよ、と思わせる導入部。
そして釜山でニモカが使えますよ、というセリフに、釜山のハナロ、
ソウルのT-Moneyのスペックはソニーのフェリカではなく、
たしか、シーメンスかフィリップスのicカードシステムなんだよなぁ。
香港の八達通(オクトパス)はソニーのフェリカなのだが。
ここでひとつ「噛み合わない」ところ発見。
がだ、pitapaは技術の壁を乗り越えて期間限定ながらも
ソウルのT-Moneyと「片相互乗り入れ」を果たした。
なんか、ある意味「翻弄感」というやつをコンテンポラリーダンスと
いうか、コーディネーションでじわりじわりと見せていき、
翻弄されながらも「隠していた」、あるいは「隠されていた」
本当のわたし、というものを見せていく。
現実空間ではくじらの群れがうようよして行く手を阻む。
前にも、うしろにも進めない状況で日本人の少女と
韓国人の少年がうっかり出会い、「ゆるキャラコンテスト」と
いうものを通じて、これまた「事に臨む」上での「食い違い」という
ものをこれでもか、と客を巻き込みながら見せている。
隠し味として第一次世界大戦、第二次世界大戦という
「人間」というものが犯した「過ち」を「鬼っ子」あるいは
「トゲピ」という「生まれてくるはずのない子」が混ぜくるように
わたしたちの意識に働きかけ、結局は「噛み合わないこと」が
戦争を引き起こすのだろ、ヒト、というものは何時かは滅ぶ。
滅ぶからこそ、「噛み合わない」ところは多少なりともあって
そこをどう埋めていくか、「憎しみ」というもので埋めていくのか、
「侮蔑」というもので埋めていくのか、それじゃあんまりだから
「愛」で埋めていくのか「歓び」で「感謝」で埋めていくのか、
課題でもあり、楽しみでもあるのかもしれない。
そこまで行き着いて船はようやらやっと進み行き、
挙げ句の果てには海底トンネルだわ。
いつの間にか親子、いつの間にか一衣帯水、
今だ自由は噛み合わないが。
・・・これはこれで、まあ、いいか。
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