WET BLANKET 「神威-KAMUIー」

新しい「切り口」で「もうひとつの歴史」というものに向きあってみる。

 本当に、腰、というものは抜けるし、火を噴いてしまう。
この演目の初演時、行くことを決めていた日の午前中、
働いていたら、変な体勢でものを持ち上げるとすっぽりと。
まあ、明日には痛みが収まるだろう、なんて考えたら
甘かった、結局行くことができず、大変残念だった。

 時は流れて、ちょうどいいタイミングで、しかも混みあうことで
変なストレスを感じることなく、興業的にはしんどいけれど、
程よい見手の密度で物語を見ることができそうだ。
熊本で薬を忘れ、脳疲労が酷い状況を何とかしながら
福岡へ帰り、休んで長崎、深夜にまた帰り着き、父の法事
以外は脳みそが完全終了、という身にはありがたい。

 表演空間は物凄くシンプル。
シンプルであるがゆえに「アクション」という「身体言語」という
この劇団の「持ち味」を十分に見せてやる、という心意気が伝わる。

 それにしても、ロングラン、というものはクセモノだ。
お客さんが入る日もあれば、入らない日もある。
その「差」というやつをどうやって詰めるか、特に「3連休」明けの
翌日、というものの集客が一番大変だな。

 そんなことを考えていたら、もう本編。
この劇団の前作がつかこうへいの「新・幕末純情伝」という
ある意味、「男性性」と「女性性」をシャッフル、というか倒錯させて
歴史と社会の「裏側」というところにへばりついている「差別」という
とても厄介なものを、彼らなりの「視点」で見せることができた。

 この出来事を踏まえて、今そこにある物語を見ていると、驚いた。

 ものがたり自体が「つかこうへい」が出した「問い」に対する、
Wet Blanketという「若者」が出した「お返事」であり、「ひとつの回答」
というものになっている。

 「この国」は「単一民族」ではなくて、「多民族」であることを
「忘れていた」のかもしれないという「答え」として。

 まず、基本構造として「森は我らなり」という「狩猟、収集」を
「生きるすべ」とする「縄文人」が存在して、その対立的存在として
「鉄は国家なり」という「農耕、工業」を「生きるすべ」とする
「弥生人」が存在する。

 このふたつの中間的存在として「人智を越えたもの」にアクセスできる
「出雲人」が存在し、「自然の守護者」として「山の狼」たる
「アイヌ」や「ヴィヒタ」をはじめとする「北方人」が存在する。

 「弥生人」が「鉄を作る」には「強い火力」が必要だ、
故に「木炭」がいる、その木炭を作るためには「縄文人」が
大切にしている山から木を「使わせていただく」ではなく、
「略奪」という形で手に入れる事が度々あった。

 北方人も北方人で、弥生人からの略奪から縄文人を
守ろうとしたが、成り行き上、ある縄文人夫婦を「殺して」しまった。
・・・それから時は流れて5年後。

 北方人は縄文人と共同体を作り、助けあいながら
「山」や「自然」と共に生きている、そこに手負いの「出雲人」が
入ってきて、「止まっていた時間」が再び動き出してしまった。

北方人は「もう殺したくない」いうてるのに、
出雲人は「新しい国のあり方」というものを考えているのに、
弥生人だけは「過去の成功体験」に取り憑かれて
略奪を繰り返そうとしている、そして出雲人から政権を
簒奪しようとしても、北方人が邪魔だと。

 で、弥生人は縄文人をだまくらかして北方人を誘い出し、
ここから「殺されなければ、殺される」修羅の世界が自滅していくさまと
山が持つ「愛」と都自体が持っている「愛」のふたつが重なるさまを
通して、「物事を変えていくためには大きな覚悟がいる」
「物事には良いも悪いもない、それは当人の心が作る」
そして、何かを「託す」ために自らの「命」を差し出すことも
必要になってくる、これらのメッセージをうまくアクションで見せていく。

 さて、鉄を作るにはこの時代、「砂鉄」というやつが必要だ。
「砂鉄」というものは、海で取れるわけで、次は「砂鉄」をめぐる
「海」の物語が見てみたい。
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