あなピグモ捕獲団 「月面の少年アリス」

「息苦しい」は「生き苦しい」に通ずるわけで。

 リハビリ、というか、トレーニングもあと残り僅か。
昔使っていた銀行口座をこれから使う新しい口座に
切り替えて、「次」というものがじわじわと始まっている。

 そういえば、この一連の流れが始まったのが
6月、城崎温泉での劇作家大会に行ってからだ。
このカンパニーもちょうどその時期公演を打っていて、
ふたばやらあきこさんが出ていたので(以下略。

 じじ、こぱる、みずほ、みどりこはあくまでも「女優」という
カテゴリーで括っている、故に恋愛はちとためらうが、
ふたばとあきこさんは「女優」とどう表現したらいいかわからんが
「恋愛関係希望」とのグレーゾーンで括ってしまう。
・・・基本、わたしには「大事な人」がいて(以下略。

 そんな話は脇に置いといて、表演空間に入る。
・・・なんていうか「季節外れのビーチパーティ」という趣。
おまけに客入れ音もビーチパーティ向けの
これまたおしゃれな選曲になっていて、外で行われている
福岡オクトーバーフェスト、また行けなかったな、貧乏は辛い。

 その辛さを抱えつつ、今日はパーティ、とにかくパーティ
あわよくばせっ(以下略。にまで持って行け、という空気に
耐えなければいけない、というか、ひたすら耐える。

 それにしても「濃ゆいお客さん」が多いなぁ、ということを
感じると、「大人になったエヴァンゲリヲン」の色調で
「演劇」は「テレビ」じゃない、直に「向き合える」ことが喜びだ、
故に「携帯電話の電源を落とせ」と言い続けることが
とてもとても悲しい、という前説のち本編に入る。

 今回は「外部に書き下ろされた」短編8つを
自分のカンパニーで演るという趣向。
しかし、「つなげ方」が秀逸だ。

 まず、初手の言葉、「ドイツ臭い」にやられた。
・・・うん、ブラジルのワールドカップ、城崎温泉で演劇を考えれば
考えるほど「サッカーとは、あるいはスポーツとは”戦争”の代替品」だ
という思いを感じながら福岡に帰り、それからはドイツの快進撃を
横目で見ながらふと考える。

 世界最高の「思考プロセス」はドイツだった。
シュタイナーだって、ゲーテだって、なんだって、そうだ。

 わたしたちはその「思考プロセス」を間借りして
「新しいわたしのあり方」というものを考えている。
いままでは良かったが、それは現在ではちとまずい。

 「カタカナの思考」ではそろそろ「限界」というやつがやってくるぞ、
ならば「ひらがなの思考」はどうすれば出来るんだ、
そういうところまでわたしはなんとか辿り着いた。

 こういうお話を「女臭い女」と「男臭い女」の取り合わせで
それぞれが持つ、立って、居て、振る舞う、こと、その前提にある
肉体と精神、さらには肉体の有り様、精神の有り様すべてを使い
表現している、気がつけば「内面世界」に足を踏み入れた。

 踏み入れた途端に次は「群唱」で鴻上尚史が持っている
「言葉」の質感というものをロックなスピードで見せて、聞かせて、
一段落した時の安堵感との落差を隠し味に効かせて、
これがマヤさんやらが健筆を振るっていた時の
「古き良き福岡演劇」だったのか、と何もその頃を知らないわたしは
「残り香」を嗅ぎながらふと考えた。

 今度は「手紙」を題材に物凄くロックの世界がさらに広がる。
「単なる手紙」ではない、これはひとつの「文学」だというシロモノを通して
「言葉」というものは「自ら」崩壊「する」ものなのか、
それとも何らかの「外部」によって崩壊「させられる」ものなのか、という
問いかけを恐ろしいくらいのリズムで畳み掛けていく。

 更に使われている言葉がものすごく「ロック」。
・・・ロックはロックでも、映画を見ている人は
「ドゥエイン・ジョンソン」の方が通りがいいかもしれないが、
WWEというプロレス・エンターテイメントで
最高、且つ最強の「スーパースター」、「ザ・ロック」のこと。

 彼の凄さは「話芸」の旨さ、言葉のセレクト、
タイミング、リズム、そして強さ、全てに「説得力」がある。

 その言葉の感覚をうまく使いこなして、は言いすぎだが、
「暴力」というものをシンプルに伝え、「20年」続ける長さを出し、
最後の「平壌」という言葉、「あらゆる意味において遠い」という
言葉それぞれに隠された「意味」をうっすらと見せる。

 隠された「意味」をうっすら見せて次は「笑うな」という
ひとつの「禁忌事項」は「演劇」、あるいは「芸術」に必要なのか?
もしかしたらそういうことをいう人はものすごく「心」を病んでいて、
「病んでいる」という「不安」を隠し持っていて、
この「隠し持っている」不安を形にしたものが「芸術」であり、
「演劇」であって、これらすべてを誰かに「理解」してもらいたい
欲求を持っていた。

 それを満たすことができず、他意なく「面白い」と「笑う」ことで
何か侮辱された思いがあるのだろう、「笑うな」、
そして「わたしが正義だ」と主張し始めるようになった。

 ああ、人はこうして「ハラッサー」という存在に「変化」するわけか。
そして「わたし」とは感覚の違う「異者」を「排除」しようとして
影に日向に「暴力」というものを肉体的、精神的に使い、
排除に排除を重ねた結果、あるものは「レイパー」に、
またあるものは「サディスト」、逆目で「マゾヒスト」、「エゴイスト」に
なるものもいれば、「ロリコン」や「ペドフィリア」、その他種々様々な
「悪」をやらかす「魑魅魍魎」へと転じてしまう。

 この「原罪」というものを忘れた「魑魅魍魎」に
「原罪」というものを思い出させる、という被害者の仕掛ける
「復讐」から「世の中の仕組み」というものを思い出させ、
「ルール」というものは案外「秘密」が多い、だから「ルール」に
よって身動きがとれなくなって、事態は持ち越されてしまう。

 解決したいのに解決できないジレンマを壊すには
「いま」、「ここ」で「何か」を「形」にしろ、それが「生きる」ということだ。
この「行為」を「規定」して初めて「物語」は動き始める。

 「物語」が動き始めたら今度は何か「きしむ」音や
「壊れる」音、さらには「考える」という「痛み」がわたしを襲う。
「疲労感」からくるストレス、その大元となる「諸問題」は
何も解決せず、ただそこにひたすら積み上がる。

 なぜ、そうなってしまった、どうすれば知ることができる、
どうすれば解決できる、という問を突き詰めれば突き詰めるほど
「わたし」という「宇宙」の果てに辿り着き、そして「中心軸」へと
辿り着く、この「往復運動」の結果、わたしはすべてを振りきって
「孤独」という「状態」を選んだ。

 ・・・こうして張られた「伏線」というものはいい響きをしてやがる。
これらすべての「伏線」に種々雑多な「ニュースの断片」が
引っかかると不思議な響きを持った「物語」が生まれ、
それを種種雑多な「考え方」や「生き方」を持ったわたしたちが
「芸術」や「演劇」という形で受け取ると、「いったい、あなたはどうなんだ」
という問が生まれ、この問を血ぃ流しながら解決することが
「伏線」を回収することであり、「世界」を回収することになるのだ。

 わたしはわたしであり、そしてわたしはわたしではない。
わたしは「不思議の国」に存在しているし、存在していない。
わたしは「夢の中」に生きていて、「現実」にも生きている。
・・・ということは、わたしたちは「理不尽」や「不条理」という
「落とし穴」を私達自身の手で掘っている。

 だから、息が苦しくて、生きているのが苦しいのだ。
けれども、わたしたちは生きなければいけない、とにかく。

 いろいろな場所でバラバラに演じられた戯曲を
ひとつにまとめてしまったら、人間に関する物凄く深くて広い
眼差しとこれまた物凄く深くて広い哲学の世界が存在していた。

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