福岡演劇工房「黒んぼと犬たちの闘争」

「孤独」を拗らせ、「痛み」を荒みに変えてしまった人間の悲哀。


  ここの親分は「スタニスラフスキーくん」といつもわたしは呼んでいる。
彼は、どういう人生を生きてきて、どういう事情で演劇という「芸術」を選び、
どういう経緯でヨーロッパ(特にロシア)に渡り、
そこの演劇を勉強して「スタニスラフスキー・システム」というものを
体得して、この福岡に「流れ着いた」のか、まだまだわからない。

 故に、わたしは会うたび、会うたび、彼が「わからない」から
スタニスラフスキー・システムと「公立の演劇学校による俳優教育」とか
に代表される、要するに「カタカナ」の「エンゲキ」に「固執」して
福岡の演劇業界に顔を出すたびに喧嘩を売りまくっていたことが、
正直、理解できなかった。

 たしかに、「スタニスラフスキー・システム」とか
そこから派生する「メイエルホリド」、「マイズナーテクニーク」、
その他、たくさんの「カタカナ」による、「エンゲキ」を学ぶことも
すごく重要だ。

 けれども、わたしたちには不完全ながらも先人から培ってきた
「ひらがな」の「えんげき」や「漢字」の「演劇」という「芸術」がある。
その「不完全」や「至らなさ」を抱えて昨日よりも、今日、今日よりも
明日、と日々、たたかっているのだ。

 それを理解する以前にスタニスラフスキーくんは
「私は”世界基準”を学んできたのに・・・」というオーラを
振り撒きながら、「自分」を懸命に伝えるに夢中で
他者の話を聞かない、聞こうともしない。

 聞かない、聞こうともしないから「混ざる」ところと
「混ざらない」ところを知りたくないのか、知ろうとしないのか、
故に、スタニスラフスキーくんと場を共にすると
気分が甚だよろしくなく、ぐったりと疲弊してしまう。

 そういう経緯があったので彼が「福岡演劇工房」というところを
立ち上げ、最初のリーディング公演に行けなかった。
そして、やっと「本公演」というものを打つ。
それでも、行くか、どうか迷っていた。

 心も体もすごく疲弊しているし、あとお金も。
「演出家協会」の「無料観劇斡旋」にもなかったし、
どうしようか、と思ったらオフィスから斡旋が来て
オーダーを出したらすんなりと通って見に行くことに。

 まあ、武装解除というものをして甘棠館に行ってみると
「家内制手工業」で「演劇」というものをしようとしている。
スタニスラフスキーくんの両親がなんだかんだと動きまわり、
そこに、受付兼ホタルさんが色々と準備をする。

 よく訓練された・・・と言いたいが開場の声掛けが
「周りに迷惑をかけない」というか「ささやくような」小さい声で
やるものだから、少し戸惑ってしまう。

 表演空間も凄くシンプル、ほぼ素舞台の隅っこに
目立たないように机と椅子、そして手元を照らす小さいライト。
「無音の音」に耳を澄ませているとスタニスラフスキーくんの父が
前説をたどたどしくやり、逃げ場が塞がれて暗くなる。

 隅っこにある机と椅子にスタニスラフスキーくんが「演出体勢」で
座り、その後、静かだけれど、「美しい」リズムで男と女の演者が
板の上に入り、物語がゆっくりだけど、激しく動き始める。

 場所は西アフリカのとある国のとある「公共事業」の「建築現場」で
「誰か」が「現地人」を車で轢き殺したのか、うっかり撃ち殺したのか
そういう「事故」という「事件」があり、その「兄弟」が遺体を
返してくれ、金はいらないとお願いに来る。

 ここに、「現場監督」という不具で年をとった男が「婚約者」という
「女性」を母国から連れてきた。

 さらには「現場監督」の下で働いている「自意識過剰が肥大した」
若い「白人」男性が絡んできて、「立場」と「役割」というものが
「わたし」と「他者」と「異者」という三つ巴の関係を作り出し、
それぞれがそれぞれの存在をどういう風に「扱い」、どう「生きよう」と
するのか、というところをスタニスラフスキーくんのある意味
「味のある」セリフ回しでじっくりと見せている。

 そうなると、戯曲の中にある「フランス領の西アフリカ」とか
「フランス人」とか、「アフリカーンス」という物語を規定する
「枠」がいつの間にか取っ払われていて、芯の部分である
「差別」とはどういうものなのか、なぜ「差別」というものは
起こってしまうのか、そして「差別」という行為の行き着く先に
何が残るのか、という問がはっきりしてくる。

 まず、「母国から遠く離れて」という「孤独」が
それぞれの「底」にあり、「孤独」という「時間」が長ければ長いほど
抱える心の重さによって心は拗れてどうしようもなくなる。

 こじれてどうしょうもなくなった心の「痛み」をどうにかするために
酒に呑まれる、金に取り憑かれる、そうすることで痛みは和らぐが、
「荒み」というものへと変化して「狂い」へとつながる。

 若い「白人」男性は年取った不具の「現場監督」の
「奴隷頭」に成り下がることで「孤独」を埋めようとしたが
「こんなはずではなかった、私はもっと出来る」という形で
「孤独」をこじらせ、酒に呑まれる、「現地人」を見下げてすぐ殺す。
・・・結局疎まれて自分も殺された。

 「現場監督」の婚約者は彼女に関わる「差別」に疲れて
「新天地」たるアフリカにやってきたけれど、「現場監督」の
「静かなる拘束を受けることによる高い報酬」と引き換えに
「婚約者」という「奴隷」になってしまった。
けれども、「現地人」の持つ「無垢の魂」と「深い教養」に
惹かれて、「本当のわたし」に目を向ける。
そして「アフリカの土」になろうと決心をするが・・・。

 「現場監督」は「不如意」の痛みを「荒み」に変えて、
それを強調することで何処かから「大金」をせしめ、
この行為に味をしめて着服や横領をしていた、
母国の会社は何も知らない。
そして「全て」を知ってしまった人々を手を下さず殺して
「孤独な王」になりつつある。

 この「心理的構造」の外にいる「現地人」は単純に
「兄弟」の遺体を地元の村に「帰らせて」、地元の土に
「もどしてあげたい」、ただそれだけの理由だった。
・・・だから「お金はいらない」、出てくるのを静かに待つだけ。


 結局「努力」とは「奴隷」になるためにやることなのか?
「自由なわたし」を手に入れるための「為すべきこと」に
「努力」という言葉は間尺に合わない、別の言葉を当てなくては
という考えをより強くするところまで「煎じ詰めて」いる。

 なんか、最近のわたしたちは「異者」だけでなく
「他者」すらも「拒否」や「拒絶」をしようとしている傾向が多々ある。
それぞれが持つ「良さ」や「素晴らしさ」を「理解しない」まま
人生を過ごし、終わらせるのは実にもったいないなぁ。
 
 それだからこそ、うーむ、「スタニスラフスキー・システム」って、
何なんだろう、と思わず考えてしまう。

 戯曲が持つ「作者が本当に伝えたいこと」を「背景にある思想」や
「場所が持つ空気感を始めとした情報」、演者それぞれが持つ
「元来のキャラクター帯域」などを「ノイズ」として捉え、調整して
一字一句「正確に」見手へと「伝える」手段として捉えたらいいのだろう。

 だとしたら、その文脈で「使いこなす」ことができていたのは
おーたさん、ただひとりだけ。
あとの演者はシステムの「奴隷」になっていたのか
からだがシステムに囚われすぎて言葉がお留守になったり、
なんていうか不思議な「エンゲキ」に変化していた。

 スタニスラフスキーくんの今までの心のありようを
「表す」ためにこの戯曲を選んだ時点で「ドキュメント」という
見方をしてみるのもあり、なのかもしれない。
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