劇団きらら 「ぼくの、おばさん」

人生における「不器用」の定義について、
しばし考えてみる。


 いけだみきという「書き手」は「人や物、あるいは出来事」が
「ある日、突然いなくなってしまう」ということをお話の題材として
「扱う」となんとも言えない空気、というものを創りだしてくれる。

 始めて見た「いちじく純情」だってそうだし、前作の「踊り場の女」は
「無縁社会」とその周りにある「過干渉社会」という「社会の現実」を
加えて、「喪失感」というものを精度の高い「身体言語」で
見せつけられた。

 「縁」というものを残したい、と思えばいつの間にか
「縁」を「切っていく」方向になる、逆に「縁」というものを
うざったく思って、切りたいな、と思えば思うほど
この「うざったい縁」がしつこく残るようになっていて、大変面倒。

 ここに板の上に立っている「キャラクター」が持っている
「生まれ」や「育ち」によって醸しだされる「感性の違い」となって
「歳の差」や「性別差」が混じりあうと「人生の質量」に化ける。


 ここ数作のみきてぃ、「混ぜ加減、混ざり加減」の塩梅が
なかなか良くなってきたので、名古屋で戯曲面での初タイトルを
狙えたのだが、取れなかった、というところに
「九州演劇」の、あるいは「九州戯曲」の課題がそこにあるのかも。

  リーディングでもいいから上演の機会、というものを
さらに言えば「書き手自身」による演出、ではなく
「他人の解釈」による演出の機会を増やしていくしか道はないのかな。

  さて、今回はゆめアール大橋の大きい稽古場を仕切って
その小さい方で公演を打つ趣。
・・・ぽんよりかは恐ろしいくらいぎゅっとしていて
この空間一面、「緑一色」。

 客入れ音が大昔、とはいっても阪神大震災以前によく大阪で
放映されていた「宝塚映像・阪急ドラマシリーズ」に使われていそうな
音が効いていて、じわりじわりと「人がいなくなる、人が死んでしまう」と
いうイメージへと変わって本編に入る。

 本編に入ると表演空間の「緑一色」がじわりじわりと意味を持つ。
「緑」といういろ自体が持つ「目立たない」「目立つことを嫌う」という
イメージがあり、このイメージを主な役柄の人に「敢えて」使うことで
「ああ、この人たち今まで、世の中から目立つことを嫌っていたからか、
 何なのかよく分からないがひっそりと生きていた」という
「物語の前提」をそれとなく見せる仕組みが出来ている。

 この「ひっそりと生きている」、「ひっそりと生きていける」ところに
「道路拡張に伴う立退き」という「街が変わる」出来事がやってきた。

 本当はわたしたちが居るところの「外」では少しづつ、少しづつ
「変化」が繰り返されている、というのにこの現実を受け入れられない。
受け入れがたいが知らない間に巻き込まれてしまう。

 まあ、「ひっそりと生きていける」ということは
ある意味、「ひきこもり」とおんなじで、こういうことが続くと
現実の「変化」というものを受け入れよといろいろ言葉を投げかけて
いることが、徐々にわからなくなり、「変化」というものに
ついていけなくなる。

 この状態が大学の授業料を滞納した、道路工事で
「ひっそりと生きていける」場所を手放さないといけないが
その代わり結構な額の「補償金」がもらえる。
けれども、隠れていた、隠されていた「そこに今いない人」という
存在が明らかになってその人の同意をもらわないと先に進めない。

 自分も含めて、大多数の人間が持つ「癖」なのかもしれないが
変化というものに対応しなければいけないことはよくわかる。
けれども変化に対応することに踏み出せない。

 こういう状態が見せる「心模様」というものを「変化を要求する言葉」を
聞いてしまうと「脳みそがフリーズしてしまう」ことを表現する
壊れているカセットデッキ、レコードプレイヤーのような言葉のリピート、
つまり具合を「聞かせている」ところが秀逸。

  この秀逸さが「不器用」という状態は「自分が好き」ではなく、
何らかの理由で「自分が嫌い」になってしまったがゆえに
起こったのかもしれないよ、と「いなくなっていた人」が突然現れて
自由自在に振る舞うことで「不器用さ」というものを解きほぐしていく。

 こうやって解きほぐしてはいるけれど、当の本人も
「別の問題」を抱えてしまったから身を隠さざるを得なかった
現実も心のどこかにある「寂しさと寂しさから生まれる渇き」、
「寂しさと渇き」を埋めるために「良きものであろうとする目的」に
しがみついた「反動」としての、一度道を外れたがゆえの
人間が堕ちる速さとして見せている。

 この「反動」の表す例として「買い物中毒」とか
「こことは違う場所へのあこがれ」、「マネーゲーム」という
自らを破壊するほどの依存に巻き込まれてしまう。
「あっ」という間に「白」だったものが「黒」にひっくり返るように。

 けれども、どん底の惨めな時間を過ぎなければ
わたしはわたしに気が付かないし、「必要とされる必要」も感じられなくなる。
更には自分の必要と限界に沿って生きていくことを学ぶことができない。

 こういう切なさ、悲しさを覆い隠すかのような「熟女の性」の使い方を
はじめとした、物凄く肩の力を抜いてリラックスというか、落ち着く、
という見せ方に安堵する。
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