演劇ユニットそめごころ 「臨床実験公演」

上演途中でわたしが「落ちたら」500円の価値。
終演までわたしが「落ちなければ」1000円以上の価値。


 「価値」=「価格」とは言うけれど、「自分自身の価値」というものを
「自分自身で決定する」ということは、とても難しい。

 本当は「集団:歩行訓練」というところがやった
「不変の価値」という戯曲、その冒頭部で
「わたしたちがこの公演を行うにあたって、かかった経費」というものを
あからさまに数字として出して、その結果、価格はこうなりました。
ということをきちんと「説明」できればいいのだが、
ここまで来ると、もろもろの作業がとてもしんどい。

 こうなると、「お客様」という存在に「わたしの価値」というものを
決めてもらうしか道はないのかもしれない。
というわけで、今回は敢えて「入場料」というものを決めず、
「お代は見てのお帰りで」というやり方を取るしかない。

 ・・・だとしたら、演目は何にする?
今までこのカンパニーが慣れ親しんで、「公演経験のある」のが
「指標」として大変都合がいい。

 そうなれば「野田地図」、旗揚げでやった「THE BEE」、
枝光アイアンシアターでやった「赤鬼」、このふたつを
いま現在、このハコで、どうやるか、どう変化させるか。

 当方、旗揚げでやった「THE BEE」は見ていないが、
野田地図の英語版と日本語版、両方見ている。
「赤鬼」は枝光アイアンシアターで見た。
「指標」というものを自分も持っている、あとは見るだけ。

【赤鬼】

 「シアター形式」で演ることが半ば「お約束」となっている
「野田地図」を「まっさらな空間」で演る、さらには「まっさらな空間」の
壁にそって客席を作り、客席と表演空間との「結界」にペットボトルを
並べ、「無音の音」を効かせて、見手の感覚が不意を突いたところで
本編に入る。

 オープニングのムーブ、これ、野田地図というカンパニーが
「ある程度演劇の心得がある人」に対して行う
「ガチの演劇トレーニングキャンプ」、しかもその第一段階の
「最終目的」にしているものを一つぶちかましているよ。

 ざっくり言えば、ある広さを持ったグリッドで複数人数が
ランダムに入り、まずひとりが動く→すぐにふたり目が動く
→3人目が動く→繰り返しのあと、ひとりが動く→別のふたりが動く
→更に別の3人が動く→またさらに複数人数動く→今度は複数人数
から1引いた人員が動く→別の3人が動く→別のふたりが動く→
別のひとりが動くというムーブをどれだけ長く、正確にやれるか?

 「動かなくてはいけない」時に動けなかったり、「動く必要がない」時に
動いてしまったら、また最初からやり直し。
本当に、心にも、身体にも一番堪えるムーブです、はい。

 このムーブを元にすべてを「再編成」しているが故に、
枝光アイアンシアター版とは違う、「野田地図」って
コンテンポラリー・ダンスとも「親和性」が高いんだね、と
思わせるくらい、無駄な動きを削り、滑らか、且つ、スピーディに
物語を仕上げ、物語に流れ、流されていたら、「方丈の空間」が
わたしたちの眼の前にあった。

 ここで繰り広げられるはわたしの「内」と「外」、
そしてわたし以外の人間の「内」と「外」それぞれをめぐる
「コミュニケート」と「ディスコミュニケート」について。

 わたしは、わたしの中で起こっている
「絶望」というものに気が付かない。

 気がつかないから外で起きている「絶望」というものにも気が付かない。
故に、わたし以外の人間の外で起きている「絶望」なんてわからないし、
わたし以外の人間の中にある「絶望」なんてわかろうともしないし、
ましてやわかりたくもない。

 このすべてが「不幸を味わう舌」というセリフに集約されている。
命をつないで、生きていくためにはこの「舌」が大事で、
この「舌」と「口」で言葉をかけると「気持ち」と「心」が自然と入るのか。

【THE BEE】

 結論から先にいう。
「場」というものをどう「設定」するかによって「見える世界」は
如何様にも「変化」するし、できるのか、という驚き。

 野田地図の「英語版」は「水槽」のようにすべてが透き通っていて、
メインの役割、男性のポジションを女性がやり、女性のポジションを
男性がやる、という「ジェンダーの倒錯」と「究極のチラリズム」を
見せて4500円。

 一方、「日本語版」は「包装紙」のように変幻自在、
すべてが徐々に包み込まれ、折り込まれていく。
「ジェンダー」というものは倒錯を起こさせず、男性は男性、
女性は女性の役割を素直にやっている。
そして、英語版との違いはコンドルズの近藤さんという
「身体言語の達人」が座組の中に入っている。
これで7500円。

 さて、今回は「水天宮ピット」という場所より恐ろしく狭く、
密度がある場所で技量の違いはあれど、どういう世界を見せるのか?
「英語版」は字幕と現場を目がウロウロし過ぎた、「日本語版」は
「宮沢りえ」の持つ「空気の可変性」に戸惑って「飛んでしまい」
「全てが始まる」ピストルの音で意識が戻るということは、
ナシでお願いします。

 ということで、空間のつくりはカミシモというところがかつて演った
「アイコン」という演目で作った「小道具を必要なときに使えるように」
予め「舞台美術の一部」として組み込んでいる。
こうなると普通のシアター以外、狭くてぎゅっとしたところでも
こういう演目ができるように作ってきた、そういう趣。

 こういう空間で、客入れ音を使わず、見手とコミュニケーションを取る、
そうしているといつの間にか開演前の前説が始まり、じわりじわりと
「物語の世界」に見手は引っ張り込まれていく、という算段。

 そこには、「水槽」でもなく、「包装紙」でもない、周到に仕掛けられた
「檻」の中にうっかり入ってしまい、なんか怖い、と思っても
唯一無二の出口はもう閉められた、こうなればすべてを見るしかない。

 「不幸せな男」がたまたま出会った「平凡な男」の持っている
「微かな幸せ」を「毟り、奪おう」とする様子が「戦争感」を混ぜた
「世界」として見せていく。

 そうなると、「幸せ」と「不幸せ」が合わせ鏡のように
重なって見える「狂気」はより一層強くなり、「怖い」から
「えげつない」へと感情が変化していく。

 さらに、「起きて、飯食って、指を潰して、その指を相手に送りつけ、
そこにいた相手の妻をレイプ、というかセックスして寝る」という
「狂った生活」の繰り返しを野田地図よりも淡々とやっているから
半端なくえげつない。

 えげつないから、女がはじめは「いやいや」男を「受け入れて」いたのが
徐々にセックスというものに含まれている「快楽」というものに
負けてしまい、「気持よく」男を「受け入れて」しまっている。
その様子がみどりこの「目」の表情から、ガンガン伝わってくる。

 こうなると野田地図のように「憤怒」や「憎悪」が塵芥のように
降り積もり、「狂気」という「火花」が散って爆発を起こす、ではなく
ガソリンのような「揮発性の高い」ストレートさで「憤怒」や「憎悪」が
十分に密閉された空間で圧縮されて、最後の最後で爆発した。
故に、ラストの破壊力、半端ない。

 最初から最後まで意識はあったし、基本の1000円は
「現金」で入れる、本当はもお少し入れたいが心もとない。
・・・6000円の価値はあるのだが、その価値をしかるべき
大きさのハコでその価値を出すことができるように「勉強代」として
(以下略。

 わたしも踏ん張らなくては。
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