劇団ショーマンシップ 「亀井南冥伝」

「学ぶことに涯はなし」。

 ショーマンシップ、とうとう「博多座」まで辿り着いたか。
詳しいことは省略するが、「博多演劇の王道」テアトルハカタから
「方向性の違い」というのか「金銭面の問題」というのか、
いろんなことがあって、「アクティブハカタ」と仲谷さんの
「ショーマンシップ」、あと徳永玲子ねえさんはテアトルハカタ本体に
残ったのかな、となると「ふたつ半」に分離、独立したわけで。

 その中でお互い、いろいろな出来事があり、大変なことも
数知れず多かったのかもしれない、それでも踏ん張って、踏ん張って、
「アクティブハカタ」は「天使すぎるアイドル」という「大金脈」を掴み、
「ショーマンシップ」は「唐人町」という場所でマジのエンターテイメントを
作り上げ、福岡の隠れた歴史を丹念に「掘り起こして」作り上げた
「唐人歌舞伎」、「インプロシアター」を通してガラパを始めとした
福岡の「新しい才能」を一つ上の段階に押し上げる手伝いをしている。

 この「踏ん張ったこと」によって作り上げてきた「強さ」が
甘棠館Show劇場であり、博多リバレインホールなのかもしれない。

 「日常」という「強さ」が作り上げた「空気」を博多座、という
「非日常」な「場所」に持ち込むとどのような化学変化が起こるのだろう?

 現実は「化学変化」を感じるには心と体が疲弊しすぎていて、
ぐだぐだの心と体を抱えながら空腹を埋めるため博多阪急の地下の
豆狸ともう一つのテイクアウトすし屋で寿司を買い、博多座の売店で
ビールを買って客席の扉が開くまでのロビーで食べている。

 今回も2階席のやや真ん中。
当方、博多座の1階席にあまり魅力を感じないのですよ。
「空間をうまく使えていない」演目にあたってしまうと
「隙間が多すぎる」とか「サイズに応じた身体言語になっていない」、
「動きの精度、密度、速度がサイズに応じたものになっていない、
 サイズに応じたものになっていなければ人海戦術、も使えない」
といういろんな粗が見えてしまい、「なんだかな」と考えてしまう。

 その分、2階席は「立体的」に物が見えて、物語を感じることができる。
おまけに1階席のお客さんの反応も見ることが出きて、まあ、好みだ。

 お話の中身は「志賀島の金印」というものがどこから来て、
どういうことになったのか、という一つの「謎」を通して
「唐人歌舞伎」という演目が得意としている
「福岡という街、日本という国」が隠し持っている「ほの暗い嘘」を
少しずつ明らかにしながらも、ぎりぎりのところで「嘘」を「嘘」という
ことをあっさりと「放棄」する潔さ、というか皮肉と示唆を見せている。

 この「地理的な物語」に黒田藩の「修猷館」と「甘棠館」という
「学(問)閥」の争い、というかある意味「片思い」に似た
過剰すぎる「敵愾心」というものを絡ませて、現実を見せ、
「学ぶ」とはなんなんだろう、「本当」、もしくは「真実」は
一体何なんだろう、「嘘」、もしくは「つくりごと」とはなんなんだろうと
問に問いかけることで、「歴史の嘘と真実は紙一重であり、
鏡の裏表である」から「歴史」というものやことは一度ならずとも
何度も何度も疑ってかからなければいけないのではないだろうか?
ということをそれとなく教えている。

 さて、「疑ってかからねばならない」とはいうけれど、
「疑う」ために、わたしたちは一体何を「拠り所」にすれば
いいのだろうか、よくわからないところがある。

 もしかしたら、「疑うために寄りどころとするもの」は
「わたし」がどうやって生まれ、育ち、生きてきて、
その結果、どういう「立ち位置」にたどり着いて、立っているのか、
ということから生まれて、作られた「視点」で見た街や土地の持つ
空気、「ものやこと」が語りかける何か、そして「心地良い」と
「気持ち悪い」という感情なのかもしれない。

 「書物」というものはあくまでもわたしの「視点」に対する
「補助的」な要素、アイテムであって無闇矢鱈にその内容を
信じこんでいくのは大変危険だ。

 こういうことを生涯かけて身に付けていく必要があるから
「学問」じゃなかった、「学ぶ」ことに「果て」はないし、
「学ぶ」ということ一切合財をきちんと考え、教えることができ、
しかも自らが率先して「果てなく学ぶ」ことこそが
「師」というものの「役割」なのかもしれない。
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