公益社団法人日本劇団協議会 「義務ナジウム」

わたしたちは、「偏った価値観」の元で生きている。

 最近、演劇を見に行っていない、というか、見に行くことができない。
「芸工大プロジェクト」で「道真」という「作品」を作ることで
久しぶりに「演劇」というものをガッツリやっている、とも言うが。

 体と頭を動かして、わたしの考える「戦略」と芸工大サイドのそれと
すり合わせ、数多くの段取りをしてこの「義務ナジウム」と
もう一つ鹿児島である「天国の楽屋リーディング」に行って
見学がてら色々動くことになった。

 それはさておき、本当にえらく凝っている表演空間だ。
「巨大な樹」が「石段」に「寄り添う」ように「存在」している。
さらに言えば、「何か」に寄り添うように「お社様」までもが
「存在」している。

 その近くには「人々の生活空間」として文机、棚、そして電話、
かばん、ヘルメット、懐中電灯、そしてその他もろもろ。

 今回公演の趣向は、河野ミチユキという「熊本の戯曲書き」が
書いた戯曲を自ら持っているゼロソーという劇団「単独」で、
「自ら演出」して「自ら、もしくは、所属している役者たち」に
よって「公演」を作り上げて行くのではなく、東京から
古城十忍という「恐ろしい演出理論」を持った実力者と
彼が引っ張ってきた手練の役者に熊本で厳しい選考を
くぐり抜けた役者たち、という座組によって、
「公演」を作り上げる趣。

 この戯曲の「肝」は「働き終えて」というか「戦い終えて」日が暮れて、
という空気、「労働の尊さ」という「精神」が全編を貫き、流れていて、
この流れに乗せて「プロスポーツ」と「セックス」と言うものから
「地方」というものが抱えている「疲弊感と可能性」をまとめて見せること。

 さて、本編に入ろう。
「労働の匂い」を強く感じることができる「音楽」といえば
「ブルース」だよな、けれども、「労働の匂い」というものが
徐々に希薄化されている現代において「ブルース」という音楽は
どう変容していったのだろうか、ということを考えながら。

 コンビニエンスストア「すら」ない、ある意味、時代、というか
現代から取り残された山村が「スカッシュ」という「プロスポーツ」と
「トンネル」という「アイテム」で「取り残された」状態を打破し、
「外部」である「時代と現代」とつながっていきたい、という希望はある。

 けれども、男は「外」へ出稼ぎ、女は「内」で家を守る、
といういつできたかわからない、事実、「美女村」というように
ある時期までは「選ばれた」女が外で出稼ぎ、あと、残されたものが
「内」で家を守る、というようになっていた。

 そういう「風習」が「山」のお陰で未だに残っていて、
さらには、「男女差別」というか「男女区別」というものに加えて
「この土地で生まれ育った存在」と「この土地以外で生まれ育った存在」
という「差別」、もしくは「区別」に対して風習を知らない
「この土地以外で生まれ育った」、そして「女性」という二重の意味での
「異者」は折にふれて問いかける。

「なぜ、そうするの?」
「なぜ、そうしたらいけないの?」

 その「問いかけ」に重なり、響くようにこのムラにある
もう一つの風習、である「御籠り」という15歳になった
少年少女たちが厄年で年上の「異性」と「性交」して、
「処女」や「童貞」を敢えて「捨てさせる」行為の準備、
参加する、しない、その他いろいろなことにまつわる葛藤が
スカッシュで繰り広げられるラリーのように重く、早く、
見手の心に入ってくる。

 「外」の常識では「童貞」や「処女」というものは「貞操」として
「神聖なもの」というか「はれもの」に触るように取り扱っていて、
こういう風に「敢えて」捨てさせる事を見てしまえば、
人によっては「狂い」というものを感じてしまうことがある。

 けれども、この「狂い」を「狂い」と言ってしまえば
「外」の常識は「内」の人々が脈々と「生きてきた」生活や
歴史、そのものを「否定」してしまうかもしれない。

 もし、「否定しない」ようにするためにはどのような形で
「生きてきた」生活や歴史を「尊重」しなければいけない?

 みちゆきさんver.は「尊重」するにおいて「それ以外の部分」を
よりきちんと「書き込んで」いて、それはそれでいいけれど、
どうも、まだるっこしいところが多々見られた。

 これに対して、今回公演は「それ以外の部分」はきちんと
「シェイプ」されていて、「異なるものやこと」に対する
「寛如の念」というところに「特化」している。

 故に、人はみな、それぞれの「生」を全うするために
「お互いを尊重する」という「矛盾」と葛藤していることが
きちんと表現されていて、見えている。

 矛盾と葛藤しているからよそ者はあまり「閉ざされた」ところへは
行こうとしない、と言うかできないのかもしれない。
「閉ざされた」ところに「いく」ということはなにかしらの存在に
「呼ばれた」のか、あるいは「血」もしくは「縁」に呼ばれないと
そうそう行くことができない。

 そうして「呼ばれた」存在である「異者」がその場所にとっての
「他者」となるための「儀式」として「御籠り」という物がある。

  こういうふうに捉えたら矛盾や葛藤は「生きる」ということにおいて
「悪いこと」なのか?それとも「格好わるいこと」なのか?
更に突き詰めれば「生きる」ということ、「ものを作る」ということは
各々の場所に「寄り添う」ことでしかなし得ることができない、としか
考えることができなくなってくる。

 もっと突き詰めたら「生きる」ことや「ものを作る」ということは
「限られた状況」の中において「何かを変えていく」作業であり、
この「限られた状況」とはわたしたちが予め「背負っている」
何らかの「運命」や「宿命」、これらが形作っている「考え方」や
「生き方」、総合してそれぞれが持つ「人生の主題」なのだろう。

 これらのことを一度「棚卸し」する必要はあるが、
この作業は打っても打っても次々に「跳ね返って」来るので
非常にしんどく、手間がかかり、骨が折れる。

 けれども、そうすることで「変化しなくていい」本質と
「変化しなければならない」本質が徐々に腑分けされ、
「変化しなければならない」本質が少しずつ、少しずつ
「変化」していくものだ。

 このような「変化」を手に入れるためには
「手を抜かず、本気で取り組む」必要と、そうするための準備、
そうしたあとの十分なケアが必要なのかもしれない。
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