アマヤドリ「ぬれぎぬ」

人間とはえげつない「いきもの」。

 最近、どこからどこまでが真実で、嘘なのか、
正しい、正しくないとはなんぞや?ということを考えすぎている。

 そういうこととはお構いなしに、私はこの3年間で方向性を見出し、
この事実を足がかりにしてあたらしいことやものを始めようとしている。
がだ、初夏の天候不順と真実と嘘、正しいと正しくないの考察が
マーブル模様となってわたしの感覚が狂ってしまうこともまた事実。

 こんなことを乗り越えて西鉄ホールの中に入ると、
目の前に「無機質」というその場所に存在するだけで
気が狂いそうな空間が広がっている。

 ああ、これが「自由」というものが最大限に拡大・解釈された
空間、というものなのだろうか、正直、心がゾワゾワした。

 そういう心がゾワゾワする「社会」では「公共」というものも
半ば民間というカテゴリーの裁量に任されていて、
任された裁量により運営されている刑務所とその場所で働いている
「親会社」と「下請け」、「本社から出向の正社員」、
「契約労働者」という「立場」は違うけれど、受刑者に対して
「悔い、改めよ」という作業を共に行い、助ける「カウンセラー」という
同じ「役割」の人間たちがこの無機質な空間で右往左往して、
この右往左往を家庭まで持ち込んで大変なことになる様子が
物語の基本線。

 「犯罪」というものはある「社会」が規定した行為。
その行為をうっかりやってしまった、あるいは確信犯的にやってしまった、
「犯罪者」という「人間」にどうやって「罪」というものを意識させて、
向き合って、更生につなげていくか、社会が抱える最大の問題。

 しかし、この問題は「良かれ」と呼ばれる「善良な意識」の下で
犯罪の半分は行われていて、あと、残りの犯罪は
「そうしなければ生きていけない」というある意味、
「切迫感」と呼ばれる意識の下で行われている、という
前提を知らなければ解決は難しいのかもしれない。

 この前提を知らずに「悔い、改めよ」と言いながら、
更生・矯正教育を「立場・役割」として行う、としても
それは「立場・役割」として物事を有利に進めるだけにすぎない、
故に、「良かれ」という意識や「そうしなければ生きていけない」という
意識を持つ「立場・役割」は必死で抵抗する。

 こういった様子が、それぞれがそれぞれの有利になるように
「事件」や「事態」という「現実」を非常に偏った見方にまで
「曲解」するさまをムーブやマイム、そしてセリフ回し、
あとアマヤドリ特有の「フォーメーション・ワーク」をほんの少し効かせて
生々しすぎるくらい生々しく見せている。

 「言語」や「身体言語」のやりとりがストレートに板の上に存在する
相手役や客席の見手に「あえて」届ける(デリバリーする)のではなく、
何かしらの「ひねり(スピン)」を加えて板の上に存在する相手役や
客席の見手の内っかわにある柔らかくて、儚いところを突くように
届けて(デリバリーして)いる、危うさ、痛さがじわじわと伝わってくる。

 まるで、沢山の「固執」がドロドロに混ざっている状態を「拘泥」といい、
拘泥状態から生みだす言葉は有利さを求め曲解(スピン)する。
私達は一体どういうことに「固執」して「拘泥」しているのか、
何もわからないままに。

 故に、自身とは持っていく感覚が全く違う存在を「知った」時、
「邪魔でうっとおしい」という感情を持ち、その感情が「憎しみ」にまで
曲解(スピン)して、存在ごと消してしまえ、というところにまで
曲がってしまったところを丁寧に解きほぐしていく。

 結局、曲解(スピン)と利害関係が新自由主義者の基本思想なのか、
この基本思想の下、自分にとって「有利な人生」を得るために
駆け引きした事実が積み重なって、誰も「得る」ことは出来なかった、
何も「残る」ものはなかった、という現実だけが残った。
そして、泥沼のようなあたらしい現実が始まる。

 上から物事に当たるのではなく、「わたしも同じだ」という
目線にまで降りなければどうにもならないのだろう。

 ・・・故に、人間はえげつない「いきもの」である。
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