演劇引力廣島「五十嵐伝」

「プロフェッショナル」を舐めるな。

 わたしも大学時代、「プロレスの現場」の大外で4年間働いていた。
こうして、レポートを書きながら考えてみると、
わたしが演劇というものから「離れていた」時の
出来事だったわけで。

 あの頃はジャイアント馬場も、三沢光晴も、
橋本真也も、まだ生きていて、そうそう、ターザン山本と
「週刊プロレス」が仕掛けた「活字プロレス」が
東京ドームでの「夢の祭典」で全盛を迎え、そこから徐々に
下降線をたどり、様々なところで「内部分裂」が起こり、
DDT、大日本を始めとした「インディーズ」が萌芽を始め、
アメリカのWWF(現WWE)というものがケーブルテレビや
CS放送によってより手元に近くなり、ハッスルが
出てきては消え、という時代の流れだった。

 その流れの収束点がオカダ・カズチカの新日本であり、
DRAGON GATEであり、DDT、なのかもしれない。

 そういった、自分の感じた「空気感」が
広島アステールプラザ、多目的スタジオの中に
プロレスの「道場」(らしきもの)として
「再現」されていた。

 肝心要の「リング」がない、ということと
「体を作る」観点から見て、きちんとした食事を
「作る」環境がしっかりしていないな、というところ以外は。

 これはもしかしたら、「インディーズ」、
それも団体を興したての「インディーズ」のお話なのか、
と思ったらとある工業系の学部がある大学の
「プロレス同好会」だったことを導入部できっちり見せて
「プロレス」という現場の裏側・バックステージで起きた出来事を
春・夏・秋・冬、という季節の移ろいの中で見せている。

 正直、「活字プロレス」が衰退して以降、「プロレス」というものが
「闘う演劇」になってしまったのか、「フィジカルな演劇」が
「プロレス」になってしまったのか、わけがわからなくなる時がある。

 それくらい、「プロレス」というものが中途半端になってしまい、
結果、「試合」という「現場」の中で信じられない事故が起こり、
たくさんの大怪我や死亡事故が起こってしまった。
広島でもアステールプラザの中ホールで女子プロレスラーが
事故で死んで、グリーンアリーナのサブアリーナで
三沢光晴がああいうことになってしまった。

 その結果、より、「演劇」と「プロレス」の境界線がなくなって、
更に、中途半端になって、「わたしは、何を見せたいのだろう」という
「基本」すらわからなくなっていた、というかそれを知ることすら
やりたくなかったのかもしれない。

 この「自覚していない中途半端」が漂う場に五十嵐という
ひとりの人間が「プロレス」をやりたいとやってくる。
体自体も「プロレス」の体、「格闘技」の体ではないし、
「格闘技」の技術、「プロレス」の技術はまったく持ってない、
ただ、あるのは「佐山聡のタイガーマスク」に対する「記憶」と
プロレスに対する「熱意」だけ。

 なんだかんだありながらも、「プロレスラー」になる一通りの
「儀礼」を通過してリング上の「キャラクター」もつき、
何回か興行を打って、五十嵐以外のみんなは薄々気が付き始めた。
「違和感」というやつに。

 この「違和感」の出処が「高機能記憶障害」というものだった、
というところにわたしは少し、どころかかなり引っかかる。
そういえば、おんなじ障害を持つ人とほとんど毎日顔を突き合わせて
生きていて、「違和感」を感じて苛立ちながら働き、生きている。

 わたしも「人生のアクセルとブレーキ」の使い方が
よくわからないので、「他者」との「交流」から生じる
「衝突事故」を恐れていることが多く、自分のやること
あるいは生きていくことを邪魔されると嫌になる時がある。

 で、「高機能記憶障害」の特徴として
「人生にアクセルしかなく、ブレーキがない」ということが
あり、そこのところが自分のやることや生きていくことを
邪魔されているようで、「衝突事故」を起こしそうになる。
故に、事故を起こさないようにその人をあえて「空気」のように
扱って生きているのだが、「違和感」はじわじわ残っている。

 けれども、この「プロレス」はなんとかぎりぎりのところで
踏みとどまりながらなんとか受け入れ、引き立ててもいる。
この違いは一体何なんだ、と考えてみると、こんなことを思い出す。

 ・・・あいつも五十嵐のように時折自分の感情を顕にして、
というか感情を吐き出しきったらよかったのに。

 なのに、あいつと来たらテレビの中の人や、
今、そこに存在していない人が「一生懸命何かをなそう」と
している様子に対して「引き笑い」やら「こいつ、馬鹿じゃん」と
冷たい感情を出したり、おまけにうざいくらい
「自らのこと」や「今そこで映っているテレビのこと」、
しかもみんな見ているから、流れをわかっているのにそれを話してる。
またはそういう話しかできない、そこにうんざりする。

 がだ、五十嵐のようなことは「学校」という環境だから
許されるし、受け止めてもくれる。

 でも、わたしが今いる場所は「プロフェッショナル」=「仕事」の場。
「プロフェッショナル」の場では「感情」は「仕事」の妨げとなるわけで、
吐き出せば多くの不都合がやってくる。
故にどんなことがあっても、なるべく「感情の発露」を抑えて、
自分のやることをやるしかない。

 「プロフェッショナル」の一歩手前にいて、
「プロフェッショナル」の世界に踏み出すか、どうか迷っている人間は
この「感情のコントロール」の問題と「何かを諦める」ということを
同時に学ばなければいけない、そして今いる場所でやるべきこと、
否、やることをやりきって「完全燃焼」させなければ次には進めないし、
「完全燃焼」させる行為を受け止め、手助けすることで
それぞれの人生、運命がどういうふうになるか、分からないが
変化していくのかもしれない。

 ターザン山本と「週刊プロレス」が旗を降って先導、扇動してきた
「活字プロレス」の後にやってきた「プロレス」はどうなんだろう?
・・・なんか、中途半端すぎる。

 とくにNOAH、三沢光晴が死んで、新日本から鈴木みのるが
やってきて引っ掻き回しているさまを見て、
「これは演劇でもなく、プロレスでもない」中途半端な「興行」、
こんなもの、正直、見たくない。

 五十嵐伝はタイガーマスク、あるいは三沢光晴へ贈る物語だから
ジャーマンスープレックスを劇中に入れることがいいかもしれないが、
頭部のダメージを考えに入れたら特別な訓練をしないとできない技、
それをしないことが「プロフェッショナル」に対する「敬意」なのに、
NOAHにおける鈴木みのるはその「敬意」がない。
・・・たとえそれが「演劇」であったとしても。

 この「敬意」がないまま勝ち続けて、団体乗っ取ったら、
いつか、また洒落にならない「事故」が起きて「プロレス」は
本当に終わるだろう。
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