飛ぶ劇場「睡稿 銀河鉄道の夜」

世の中はすべて「非対称(アシンメトリー)」なのかもしれない。

この演目を始めてみた時はたしか
「ぽんプラザ開設10週年記念・九州地域演劇祭」で、
自分も「ハンバーグ工場で働く」という人生の旅を始めた頃。

2回めはなんだったんだろう、たしか「小さな戦争」の最中、
いろいろ諦めなきゃいけないことを諦めようとしていた、
その状況での葛藤の中で生きてきた。

そして、今回はこの「小さな戦争」から始まる
自らの葛藤がじわじわと膨らみ始め、気が付くと
「このまま、わたしはハンバーグ工場で働き続けていいのだろうか」
「仕事内容、受け入れ体制はものすごくいい、けれども現場の空気が
人生を雑に生きてきた人達によって荒らされていることがきつい」
という感情を抱えながらここ数年間、ところどころ休みながら働いていた。

がだ、こないだ熊本で起こった地震と自分の周りで起こった
「人生のもがき・あがき」を見て、感じて、様々なやり取りを
していたらこれらの嫌な感情をせき止めて
なんとか働いていたことが突然できなくなった。

・・・仕事、辞めちゃった。
というか、「何者かとたたかっている」という「抵抗感」を手放した。

そういうことを「一般席」に気がつけばすんなり座り、その流れで
もりおかとかあなさこ、はやまさんに開演前の客入れの流れで
つらつらと話している。

長すぎる前置きはここまでにして、今回の「銀河鉄道の夜」ツアー、
名古屋での「高校演劇セミナー」の示範公演はガチの「劇場」で
京都、北九州市枝光公演は今までの表演空間より天地とも
ぎゅっとした空間、という「正反対」の環境で公演を打つ。

ということを表演部でウォーミングアップが
「参加席」と共に始まり、「一般席」もそれに合わせて
「息を合わせ」ようとしている様を見ながら以下のことを考える。

前々回、前回は「スポーツのような」演劇という面が強く出て、
ひとつひとつのムーブやマイムに見ての「反応」がビンビン伝わってくる。
けれども、今回は「ガチの演劇」や「スポーツのような演劇」というか、
「コンテンポラリーダンス」の要素が強い「演劇」へと変化している。

泊さんの書く「セリフ」に演者個々が「演劇」という旅をして
身につけた「身体言語」を載せてより雄弁に喋ってる、体全体で。
見手もつられて、また体全体で「反応」をものすごい精度と密度で
伝えてくるから、「物語」が息をしている、息をしているから生きている。
生きているから、宮沢賢治が文学、と言うものを使って
「伝えたかったこと」も きちんと伝わっている。

宮沢賢治、という書き手は「農業」という「立ち位置」で五体と五感を
使って働いて、言葉を紡いできたきた人間だった。
五体と五感を使って働いてきた人間にはごまかしが効かない、と
いうのは「実感」として本当なのだ。

「ごまかし」のない、「実感」のあることばで明治期でいう「帝国主義」、
2016年現在では「新自由主義(=市場原理)」に支配された
「ある辺境の土地」のある意味「無駄」を許さない、
それでいて荒々しい「労働」と「生存」しかない「現実」を見せ、
この「現実」の対比として「銀河鉄道の旅」という乏しいけれど、
「宗教」や「芸術」を使いながら楽しく生きていた「過去」を効かせている。

・・・だから、冒頭部と結末を「近代科学」の「授業」にしているのか!!
そういえば、泊さんはかつて「キリスト者」だった過去があり、
「伝統宗教の疲弊」を目の当たりにして「正しい街」を書いたのか、と
いうことまで思い出してしまった。

多分、「生きること」ということは、「目的地の見えにくい旅」を
なんかなし、続けていることなのかもしれない。
私はどこから来て、どんなところを通り、どんなことを成して、
どんなことを成さなくて、そしてどこへ向かうのだろう?

この旅には、色々な「生き方」があり、「いろいろな死に方」がある。
これらは全て「非対称」なのだ、というのは板の上にある演者が
着ている衣装にメッセージとして込められている。

「生き方」や「死に方には、様々な形があり、
そこには「運の善し悪し」ですべてが決まってしまう
「無邪気であるが故の残酷さ」を抱えた現実があり、
これが経済や文化(分化)の格差につながり、ひいては
所得や、希望の格差へとつながってしまうのだろう。

いつもの生活がある日突然良い方に転がって多くを得ることもあるし、
悪い方に転がって自らの命を含めたすべてを失うかもしれない。
これらはすべて様々な時代の空氣がそうさせるのであって、
個々人の努力だけではどうにもならない。

どうにもならない、がどうにか生きなきゃならない。
ホントはね、「自ら死を選ぶ」ことができたら「苦しい目」に
あわなくて済むからどんなにいいことだろう。

けれども、様々な場面で起こっている「すべて」の要素を取り込んで、
これらの要素を飲み込んで消化してみたら、
世の中で起きる出来事や、運、不運というものは
すべて紙一重のバランスで存在していた。

ということは、私達が「生きている」という事自体が
「ほんとうのさいわい」にたどり着くための糧になっているのかも知れない。
故に生きよ、兎に角生きよ、生きて立ち位置と役割をまっとうせよ。

そう考えていると「運がいい」ということは誰かを何かしらの形で
「食べて」生きているわけで、「運が悪い」ということは他の誰かに
「命」を始めとした「何か」を差し出している、
これを「喜んでその身を捨てる」から「喜捨」というのだ、
という現実が板の上にあった。

さらに、2016年の社会には「持つもの」は「喜んでその身を捨てていない」
我が身、我が立場可愛さに差し出すことを嫌がってはいないだろうか?
という思いが妙に突き刺さる。

さて、わたしも新しい人生をそろそろと始めますか。
新しい人生における立ち位置や役割は薄々わかっているけれど、
そこに至る過程が不安であり、楽しみでもある。
スポンサーサイト
プロフィール

itumo25254you

Author:itumo25254you
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR