劇団太陽族 「執行の七人」
学校って「社会の縮図」なのだな。
シアトリカル應典院というところに始めて行く。
南海電車の新今宮駅からなんばへ向かい、それから地下街を
真っすぐ歩いて、行き止まりが近鉄と地下鉄の日本橋駅。
そこから雨がざかざか降る中を生玉に向かって坂を上がり、
上がった先に銭辰堂という仏壇屋、その向かいに目的地がある。
このお寺、いろいろなところから「お寺じゃないお寺」という形で
「人が集まる場所」という「信念」を貫いていわゆる「檀家さん制度」を
取っ払い、「仏教でどれだけのことができるか」ということに挑んでいる。
「教育」という面でも「パドマ幼稚園」という「最先端の幼児教育機関」を
運営していて、その延長線上に「演劇」が来るのは至極当然なのだろう。
けれども、玄関に貼ってあった「努めるものは道が開ける」という言葉に
些か違和感を感じた、その言葉の主が日本女子運動選手初の
オリンピック金メダリスト人見絹枝だとしたら、尚更。
・・・若くして、しかも自ら死を選ぶ人間の言葉は好きじゃない。
頂点に上り詰めたら、次は「生きる」ための・・・ふうっ、何言ってんだ自分。
それはさておき、太陽族の演劇に触れて、わたしはより演劇を
学ぶ決意をした、けれども色々あって太陽族や岩崎さんの仕事に
行くことが出来ず、ずっと不義理をしていたのだ。
で、今回は自分の身の回りに起きた「転機」を「生きる力」にする
旅の日程にぴったりとハマったのでなんとか行くことができたわけで。
さて、今回のお話のテーマは「教育」とはなんぞや?
最近、東京、名古屋、京都、大阪のいわゆる「エリート教育」を
施す小・中学校、そして高校は「考える力」=生涯を通じて
「学びのモチベーション」を切らさない、という方向性で
「アクティブ・ラーニング」という手法へと
「アクティブ・ラーニング」という手法へと
急速に舵を切り始め、「東京オリンピック後」を機にこの国の
「スタンダード」へと変化させる腹づもり、らしい。
「スタンダード」へと変化させる腹づもり、らしい。
・・・要するに、昔の様に単一の価値観ではなく、
多種多様な価値観をかちかちとぶつかり合わせ、
わかり合おうと「させる」ように「仕向ける」
ということなのかも知れない。
ということなのかも知れない。
そうなると、PTAという「親が教育に参画する仕組み」って
どのように変化していくのだろう、というか、いったいぜんたい、
もともとの形ってなんだろう、という問を岩崎さん(というか奥さんか?)
が「実際」に「現場」へと飛び込んだことで見えたなんだかんだを
「演劇」に丁寧に起こした、のが今回の趣向。
「資本の格差」や「文化の格差」がある程度「高いレベル」で
担保されている「社会」のもとで運営されている学校の
PTAという組織は多分、こういう多種多様な価値観を
かちかちとぶつかり合わせ、わかり合おうとさせるように
「仕向ける」、ということとは無縁なのかも知れない。
このことを表すため、岩崎さんは板の上に乗っている人物の
「キャラクター」をこれでもか、とくっきり、はっきりと際だたせるところは
際立たせ、逆にぼんやりとさせるところはぼんやりさせている。
そうすることで「7人+守衛のおっちゃん」の「資本の格差」や
「文化の格差」、そして、「人生の違い」をきちんと見せて、
これらの「資本の格差」や「文化の格差」、「人生の違い」が
大きければ大きいほど、「案件の合意形成」に時間がかかるのだ。
ということと、多種多様な価値観をかちかちとぶつかり合わせ、
わかり合おうとさせるように「仕向ける」ためには
途中の「錆落とし」というお互いの「エゴ」をぶつけ合わせて
剥がして、剥がして、剥がし切る「作業」が必要だと
板の上で物語を「立体化」させている。
この「立体化」という「作業」をやることで「できない」ことは「できない」、
「できる」ことは「できる」、そのシンプルな「真理」をわたしたちは
「できないこと」を「できるようにする(なる)」と
「勘違い」してしまうようだ。
本当は「できる」ことを時間を掛けて探すことを子供の「前を行く」
大人たちが指し示すことが教育の本質ってやつなのだろう。
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