非・売れ線系ビーナス「愛・地獄博~非・売れ線系ビーナスコレクション~」

どう生きる?

ふうっ、心と体に堪えるというか、今後、どう生きていこうか
思案している、というかなんというか。

前の週、日曜日にzig.zag.biteのプレビューを見て、
月曜日の夜に高速バスで高松、火曜日、水曜日は善通寺
ノトスでトレーニングの雛形作り、というかいろんなことをして
木曜日は徳島に移動して火曜日、水曜日の総決算。
なんとか高松までたどり着いて、金曜日の始発で四国を離れ、
岡山、広島、徳山、下関、小倉、そして博多。
乗り換えで緩めることが出来たが、10時間も鈍行に乗っている。

病院行って、薬もらって、落ち着いて、寝て、起きて
天神に行って、商品券をお金に変えて、なんとか愛地獄博を
見に行くことができた次第。

そういや、非売れは出ていなかったが、おととしの熊本dengeki、
ヒロシ軍は昼のセッション、クリンクは夜のセッションに出ていて、
クリンクはダントツの技量を見せ、ヒロシ軍は確かワイルドカードで、
そうだ、なんで全力で飴玉ぶつけたのか、いろんなことを考えるぞ。
このふたつを呼ぶたさかさんの手腕の凄さ、というか相場眼の凄さ。

これから先もかつかつぎりぎりなんだろうなぁ、どないしよう、と
考えていたら、非売れの「ツムツム」から遠征勢に繋がる旨、
連絡があり、前説のち、本編が始まる。

非売れ「ツムツム」

開演前から表演空間に「存在」している立体が、いい仕事をしている。
「何か」を待って、並んでいる「列」がコチャコチャ動いている、
待ちの列を作っている「何か」って一体何なんだろう、
そして、ここはどこなんだ?

「この世」というには無機質、「あの世」の入り口・三途の川、と
いうにはいささかものがありすぎて、そんなことを考えると
「石を積んで、鬼に壊され、菩薩が慈悲を与える」、
壊されないようにもう少し抵抗するものだろ、と思ったら
案の定抵抗して同じことを繰り返し、「石をアロンアルファでくっつける」と
いうズルをして、鬼と積み手が素に戻る。

なんか、この「社会の縮図」のような関係性を見ていると
「あの世」も「この世」も様々な「役割」や「立場」が存在して
これらの「立場」や「役割」が「仕事」をすることでなんとか回っている。
こんなことをこれでもか、と見せつけるからなんとも言えない。

なぜ、積んでは崩し、積んでは崩すのだろう?
もしかしたら「寛恕の念」を思い起こすためにそうさせるのか?
それ以前に「地獄の業」というものの「意味」とはなんぞや?
・・・「足りないもの」、「欠けているもの」をこれでもか、と
みせつける「業」じゃないのかな、ということを
うまく板の上で表現している。

この「足りないもの」と「欠けているもの」を知らしめる「業」は
ものすごく退屈だ、それをひとつの「娯楽」にしたらどうなる?
「娯楽」にしたら「何かしないと間が持たない」という
人間の「性」が今度はじわりじわりと見えてくる。

こうして「性」は「罪」となり、「積み」重ねられているのか。
それを十分わかっているからおとなしく「業」をこなしているが、
子供はわかっていない、だから「おもいっきり・・・」なのか。

人生は「遊び」というけれど、上手に遊べているだろうか?

劇団ヒロシ軍
インターミッションから継ぎ目無しで「演劇」を諦めた男と
「演劇」にしがみついている女、このふたりが交わる場所が
ある小さなTV局の通販番組の制作現場に「化ける」。

この場所とフライドチキン屋という空間を行ったり来たりして
見せていくのは、どんな世界、どんな仕事でも「立ち位置」や
「居場所」の数には限りがある、この限りある場所を
「力ずく」で取りに行かなければどうにもならない。

そうなると、生きる、とは相当過酷なのかもしれない。
向いている、向いていない、と自分で判断するよりも
「仕方なく」やらなければいけないことでも懸命にやるしかない。

その懸命にやった結果があの「すれ違い」だった。
さらには女はあの場面で最後の最後に「女優」を見せた。
なんかくやしくて、切ないわ。
・・・それよりも何よりも、けんたっきーたべたい。

ということを感じさせる暇なく次の演目へ。
・・・うあ、これもまた「コンテンポラリー演劇」だよ。
というか「演劇」という様式を借りた「ライブ・コンサート」ですわ。

「恋愛と障壁」ということを題材にした「お話」があって、
「お話」に付随している「せりふ」が存在して、
これらを「どう表現」するか、そのやり方が「小室哲哉」であり、
「globe」だった、おまけに話が突拍子なものだから
「globe」としての弾け具合がものすごい。

with a clink

わたしはきたむらあかねという人間の
「音」と「身体言語」、そして「立体空間」の把握と
イメージの保持能力が秀でている、という強みを感じている。

そういう強みを使って「演劇作品」を作ったら、
「音」と「身体言語」、「立体空間」に対する
「心地良い」と「心地良くない」の「基準」に
全くもって「ブレ」がない。

・・・おまけに音と詩がしっかりしている。

さらには、音と詩に対して皆のからだが素直に動き、
おまけにrockな隠し味が効いている。

けれども、dengekiではタイトルをとれず、に終わってしまった。
どうすれば、上に上がれるのか、という「問い」だけを残して。

今回、その「問い」に対して、
福岡「非売れ」の「歌謡劇場」と熊本「きらら」の「見立て」を
自らの「言葉の海」をこれでもかと味わわせる、という
「スタイル」に混ぜて、受け入れようとしたことに、
ひとつの「解」を見いだすことができた。

「二人の女性、しかも親友」が「ひとりの男を半ば取り合う」という
ライトな「恋愛泥々系」とはいうけれど実は、、二人の「女の一生」、
それぞれの「人生曲線」というものの中に一人の男が潜り込んだ。

これを世の中は「三角関係」といい、ある意味、暴力的で
ある意味、悲劇的な成り行きを好む傾向がある。

けれども、実際、板の上でかかっている
田坂さんのオリジナル楽曲による
「ミュージカル」ではない、「歌謡劇場」が不思議なくらい反響して、
「暴力的・悲劇的」ではない、「デリカシー」を持った、程よい距離の
「付き合い」での「三角関係」もありなんだな、と思ってしまう。

さらに、こふくの浜砂さんが「やさしさはやりようによっては
優柔不断という毒に化ける」を地で行く情けなさ、というか
たくさんの色んな感情を表現している。

・・・というか「三角関係」を少しだけ、切る意味で
好き「だった」と言われるとすげぇ切なくなるし、
積み重ねた「思い出」を「過去形」に
とてもじゃないが出来ねぇな、とため息つかずにはいられなかった。

こうして醸しだされた「空気」に「見立て」によって作られた
豊穣の空間が加われば、結局は「人生とは自転車レースの
スタート前、パレード・ランからレースが始まり・・・」の
繰り返しじゃねーか、この「人生」というレースはとてもままならない。

このままならなさをわたしは「大切な人」との関係で思い知らされている。

ままならないことを抱え、家に帰り、久しぶりに怒りの導火線に
火が付き、一晩中いろんな人達に対する恨み節が吹き出した。
こうなると情けなさやら何やらで、どうしたら良いかわからなくなる。

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