MAY「モノクローム」

眩い光の中には、眩さと同じくらいの暗黒を抱えている。

 いわゆる「映像作品」が「フィルム」という形で提供されなくなって、
というか「記憶・記録媒体」というジャンルから「フィルム・テープ」という
ものが除外されてどれくらいの時間が経ったのだろうか?

 そう言う堅い話はさておいて、MAYというカンパニーには
ちょいと「借り」を作ったまま数年間が経ったわけで。
初夏、千林大宮の芸術創造館で演ったとき、わたしの見通しが
甘かったせいか、公演途中で中座してしまう、ということをやらかした。

 正直、申し訳なくて、いろんなことを考えていたらこういうことになり、
善通寺での講座、最後の講義と仕上げの実習に参加することをやめて
新しいことを始めることになった次第を報告するために年内最後の講義に出て、
それからジャンボフェリーに乗って、神戸に渡り、風呂に入って飯食って、
阪急神戸線で梅田、諸々の用事をして環状線鶴橋経由で上六。

 落ち着いた、と思ったらいつも使っているペンを落としたようだ。
まあいい、これも古いことをはぎ落とす、ということよ。
それにしても千秋楽とは言え、変なお客が多すぎる。
開演前の趣向としてジャズと朝鮮音楽、そして和との融合を
「聞かせる」ライブがあったが、その良さがわかってないのか
なんなのか(以下略。

 そんなこんなでも、本編が始まると圧倒された。
「興業映画」を上映する(映画)館では唯一「フィルム」という形で上映する
大阪某所にある映画館、ここのプロデューサーがとある「幻の映画」を
偶然発掘することからお話が始まる。

 この「発掘された」物語ができるまでの「現場の葛藤」、
ある見手の「家族の葛藤」、「民族の葛藤」、「変化への葛藤」、
これらを「甘美的に」表現したのがイタリア映画の「ニューシネマパラダイス」、

 しかし、この映画の大阪版とこの演目を言うにはいささか鋭すぎる。
物語の端々に見られる鋭さ、とくに京都の朝鮮学校とのなんだかんだに
「パッチギ!」などを始めとする井筒監督特有の表現が混ざってはいる反面、
物語自体の密度と精度がすごいから、選ばれし者の恍惚と不安や、
ターザン山本の「シネマプロレス」のような映写室から物語にはまり込んで
引き込まれるが、どこか引いて見ている感覚、伝統の継承と断絶、
時代とプロレスする、そしてスタァの隠し持つ暗黒。
あと隠し味に「キューポラのある街」が効いている。

 なんていうか、こういうことを忘れてしまっている。
恵まれているから、こういう苦難をしなくて済んでいるのに、
けれども、苦難を引き受けなきゃいけない存在もいるのに、
どうしてそっとしてあげることも出来ないのか?
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