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トラッシュマスターズ『たわけ者の血潮』

「たわけ」とは「戯け」なのか、それとも、「田を分ける=田分け」なのか?

 表演空間に足を踏み入れたその瞬間から、場に漂う「空気」が
ものすごく濃厚だった。
更に言うと、客層そのものもいつもの福岡演劇より5歳程度年長だ。

 この濃厚な空気に慣れてくると、表演空間自体に「格」というか、
「格」というものが生み出す「差」という意味での「格差」が
どこかしこに隠されている事を知る。

 表演空間の作りは大まかに分けて、「書斎」と「応接室」という
ふたつの「部分」に分けられているが、それぞれの部分が「フラット」に
隣接しているのではなく、「書斎」の部分を「一蹴り分」高く作っている。

 書斎と応接室にあるアンティークな椅子だってそうだ。
応接室の一人がけの椅子は主人が座り、長めのソファは客人用、
そして、背もたれのない椅子、というかオットマン兼用のそれは
その場で「格の低い人」が座る。

 書斎の丸テーブルに沿っておいてある椅子と書斎の机においてある
椅子だっておんなじ形をしているのだけれど、肘掛けに布ぶとんが
貼ってあるのか、否か、で座る人の「格」というものをそれとなく示している。

 そう言う空気の中、お話のキーになる若い男がひとり、
書斎の机に向かい、ある本を眺めながら田山花袋の「蒲団」のように
「思慕の念」という「感情」に身悶える、その最中に福岡を代表する
劇評家が空間に入り、自らの座る場所を求めてまろび歩くさまが
なんとも言えないなぁと感心していると「親子の会話」が過ぎ去り、
気がつくとある新劇公演初日祝の二次会へ。

 「演劇」としての会話の端々にも、入れ子構造になっている「戯曲」にも
「劇場」と呼ばれている空間から重い扉一枚隔てたところにある
わたしたちがいつも生活している「現実」が存在している。

 まずは「ヘイトスピーチ」から始まる「民族差別」問題、それから
「経済的、文化的、思想的」な「格差」が進行している問題、
このふたつが混ざりあって、「もう戦争をして、生きるべき人間を
  選別しなければ社会は立ち行かない」という空気と、
それをなんとか押しとどめようとする空気のそれぞれがそれぞれを
「拒否」していく、その「言語的手段」としての「本音と建前」が
「見える格差」を使いながら可視化され、思考が整理されていく。

 この思考が整理されていく様を見ながら、わたしは、結婚はしているが
月一度会うことができたら御の字、これが数年続いている存在と
昨日、あるテレビドラマに関連して話していた、
人が生きている「現実」を「生きているか」の様に「演じる」ことが演劇なのだよ、という
話とおんなじじゃないか、ということと、「平和」ってなんなんだろう?
日本国憲法って、基本的人権の尊重って何なんだろ?という疑問が同時に湧き上がる。

 この疑問は正直いうと、人それぞれが異なる「答え」を持ち、
その「内面的」な「答え」に沿って人生を生きることでしか解決しない。

 けれども、その「解決手段」にそれぞれが取り組まず、
取り組めないから異なる「答え」や「生き方」を尊重できず、
あるいは、良きにせよ、悪しきにせよ、「タブー(禁忌)」という形で
触らない、触りたくない、と「無かったこと」にする。
そうして、他者に対して自らが「生きる」中で得た知識や知見を
振り回して喧嘩を売る。

 この喧嘩が「医療用大麻(マリファナ)」の合法化をめぐる
なんだかんだに集約され、お話には現れないが「喫煙・禁煙」を
めぐるなんだかんだにまで広がって、とにかく、生きていることが、窮屈になってきた。

 もしかしたら、わたしたちは「何かと何かを比較する」ことを通じて
「差別」という活動を知らないうちにやっていた。
もっと言えば、「わたしはあなたとは違う(優れている・劣っている)」と
「差別」することで、自らの「主義・主張」を正当化している「だけ」かもしれないよ?
「他者」というものを許せなくなったり、許せなくなることで他者を傷つけたりしながら。

 そう言うふうに「自由」を追求して、極めちゃうと「たわけ者」になっちゃう。
「戯け」という意味での、ではなく「田を分ける=田分け」として。
本当は主義主張は異なろうとも、ひとつの「理想」のために力を合わせることができる、
否、しなくちゃいけないが、そうしたくないから「繋がり」を絶ちたい、それが自由。

 「繋がりを絶つ」ことで産まれた自由を知って、伝えたから
祖母はその苦しさを紛らわせるために大麻を使い、その子どもたちは
変な「言葉遊び」という学問しかできなかった。
それが何より証拠には「翻訳家」たる娘(若者にとっては母親)が
「格差」を「超える」ことが結局出来ず、心乱し、狂うしかできなかったわけで。

 息子たる若者はなにか、それ、おかしいんじゃね、と思い、
すべての「現実」に理由や理屈、必然性があることを
考えようや、と考えていたのかもしれない。

 さて、私達はどうなんだ?

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