サキトサンズ 「梨の礫の梨」

「隙間」からいろいろな人生が見える。

 ・・・まじで突き刺さる。
始まる前から空間のつくりでまず唸らされる。
恐ろしいくらいにギュッとしたスタンドバーとはこういうものなのか、
一度こういう場所でゆっくりとお酒飲んでみたいな、という空気ができている。
 テーブルの上にはマッカランの10年もの。
少し高いかもしれないがどこぞの「国産」ウィスキーとは違い、
酔いの「抜け」がいい、それに氷の入ったグラスが二つ。

 客席をふとみてみるといろんな人生を持っている人がいる。
そういった人生のうろうろ具合やらぐるぐる具合が客電の明るさと重なって
「切ない明暗」と言うかたちで見えてくるのだ。
この「切ない明暗」というものを抱えて物語に入る。


 まずは「拒絶」のお話と言うマクラから絶妙の話芸が炸裂する。
電車の中って、いろんな拒絶が漂い、なぜかしら火花が飛んでいるなと、
毎日家から長い時間電車に揺られて仕事場へ向かっていると感じてしまう。
けれども、これらの「対立」に対してささいな衝突はあるけれど、
これがもとで傷害事件とか殺人事件が起きた話をなかなか聞かない。
ということは、みんな、いろんな拒絶を受け入れてはいるのだろう。

 本当は、自分だって電車に乗った時、自分の隣の空席に
カバンなり、自分の荷物を置いて「わたしはわたしのとなりに誰も座ってほしくない」と言う
ある種の「意思表示」をしたいのだけれども。
板の上では逆に「わたしはわたしのとなりに誰も座ってほしくない」と言う「意思表示」に
抗って、というか抗おうとして、結果降りたかった駅で降りることができず、
実は、抗っていた、抗おうとしていたのは「わたしの自意識過剰」だったのかもしれない。
その考察を裏打ちするかのように「座席の譲りあい」と言うケースまでも
絶妙の話芸で「聞かせて」いる。

 気がつけば、「自意識過剰」をめぐるひとり酒から「本当は今、そこにはいない」誰かとの会話、
過去に起こった、どうしようもならない、もしくはどうしようも出来なかった出来事についての考察、
突き詰めたら母が突然わたしの目の前から消えたからこんなに大変な目にあった、
責任取ってくれ、と「見えない」母に対して言い寄ってくる。
ここにフェデリコ・フェリーニの「道」という映画と思われるお話が重なってきて、
「運命」に対してどうしようもできないわたし、とそれでも受け入れて生きていこうとするわたしが
一つの体に入っていて、その相反する思いがいつもいつもぐるぐるしていて、
ぐるぐるがひどくなるとお酒を呑んで、毒を吐かなければ、やってられない。

 過酷な状況を何とか無理やり生きてきたけれど、疲弊は相当なものだった。
なのにあなたはそこから逃げた、私は逃げられなかった。
けれど、私はもっと、もっと、耐えてやる、という思いが最後のマッカラン2本に現れていたのだろう。

 こんな状況を自分自身も生きていて、重たくて、嫌になって、正直死にたかった。
この演目の長崎公演から岸和田公演までの間でその重い想いをすべて吐き出して、
正しいやら、自意識やらというものはすべて「他人様」信仰であって、
その信仰に縛られているから余計しんどいことになっているのかもしれないよ、という
教えをもらい、ネガティブな思いや思考が少しでも湧いてきたら「他人様じゃねぇか」と
つぶやいて、遮断することで目の前のことに集中することができた。

 色々な思いがいろいろな変化をした様子ってこんなかんじで、
変化した先に見える「景色」とはこういうものだったのか。
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テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

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