風琴工房「国語の時間」

「誇り」というか、「アイデンティティ」を尊重する、というのは大変難しい。

  このカンパニー、いちど見たかったのだ。
こりっちの「春の舞台芸術祭り」初回最優秀賞。
その公演のチケプレに見事外れて、おまけに身動き取れず。
というわけで、遠巻きに見て、縁がないなぁと。

 そんなこんなで今年の年始め、枝光アイアンシアターで
「演劇の使い方」についての考察を深めるなんだかんだが
泊まりがけであって、そこに制作のお姉さんがいたわけで。

 ・・・演劇時空の旅の予定も飛んだし、当然劇王戦も、
さらにはお金が心もとないなぁ、もう少し早いタイミングだったらと
最初は尻込みしていたがお姉さんが是非に、と何度も言うから
平日日程にして[以下略。

 というわけで来てしまった。
こういう形で行くことになるなんて思いもしなかったのだが。
まあ、改めて「何はなくとも全ては縁」ということを
思い知らされる、というか感じてしまう。

 まじですげぇ。
客席に足を踏み入れた瞬間、奥が深く、天が高く、おまけに意図的な穴のある
ものすごく手の込んだ表演空間が存在していた。
この表演空間「だけ」でもこの演目を見る価値はありそうだ。

 制作のお姉さんからチケットを取ったので席の周りには
「関係者」らしき存在がうようよいらっしゃる。
おまけに一列斜め前には古田敦也氏の奥様が。
・・・「演劇マニア」だというお話はそこかしこから聞こえていたが、
実際そうだったとは、さらには自分のメディアで演劇のことを
お話しているのかな、と思っていたらこりっちにも書いているらしい。

 それにしても東京のこういうところにたむろっている
「関係者」って、なんか剣呑な空気をまとって、甚だ居心地がよろしくない。
些細なことに対して神経質、というか、他者を許さない態度をとりがち、というか
他者の良いところを見ず、悪いところしか見ることのできない可哀相な方々が
演劇作るとどんな作品になり、その作品を見てどんな感想を書いて、
それを普通の人が見て、読んで、感じたら・・・あとは何も言うまい。

 見る前からなんかげんなりしたところに重厚なオーバーチュアから
本編が始まる、というだけでも「ホンマモンの演劇」というものを
見ている、という気持ちにしてくれる。

 1940年、7月、京城のとある小学校から物語は始まる。
夏休み明けてから始まる教育実習の準備のため一人の女学生がやってきた。
名前からして現地の人だが、とても美しい、それも異なった文化の人が
学んで、話す言語の美しさだ。
そして、東京から朝鮮総督府に赴任してきたある役人とたまたまつながることで
生まれた関係、というものを縦糸に、「植民地支配下での言語教育」というものを
横糸にして「にほん」と「コリアン(チョウセン)」の非常にデリケートな関係を
じっくり丁寧に、しかも生々しく見せている前半部分。

 10分間の途中休憩を挟んで後半部分は更に物語が加速していく。
生まれ育った環境、というものと先天的な「才能」というもの、
更には「社会」という状況が絡みあい、うねりあって個々の
「人生」というものが作られ、関係し合い、翻弄されるさまがなんとも言えない。

 この様を見れば見るほど「創氏改名」とか、「方言札」のように
「強いものが弱いものに対して服従を誓わせる」行為として
「文化を揃える」行為はこの時期、世界中、どこもえげつなくやっていた。
「にほん」も「チョウセン」の他に「タイワン」でもほとんど同じ事をやっている。

 なのに、「タイワン」は喜んで「文化を揃える」道を選び、
「チョウセン」は「文化を揃える」ということに対して「嫌悪」や「憎悪」に近い
反応を示すような道を選んでいる。
この違い、というものは一体何なんだろう、そしてどうしてなのだろう。
そういった疑問、ということを考えさせられるように持っていかれる。

 …愛、なのだな、結局は。
何に対する愛なのか、誰に向けられた愛なのか、という違いはあるが。
この「愛」の違いと関係のすれ違いがこれでもかとうねりを見せていく。
うねればうねるほど「居場所」と「愛」が「自己」を作る、というところまで
持って行かれてしまうではないか。

 「居場所」がなければ、肩身の狭い思いをしなければいけないし
そうならないために「同化」の道を選んでみても、二重、三重の「差別」と
いうものが邪魔をする、だったら危険な道を選んで「同化」することができた。

 しかし、差別による憤怒と憎悪は「同化」によって新しく生まれた
「アイデンティティ」というやつを容赦なく剥ぎ取っていく。
そうすることでむき出しになった「地」というものに耐えられなくなり、
反動で死ぬことを選ぶ人もいれば、本当の愛国心に目覚めてしまう人もいる。

 逆に居場所のある人はちょっとやそっとでは「同化」できない。
自分をより良く「表現」するための手段として言葉を使うことができた。
多分、この違いだったのかもしれない。

 このことはまわりまわって、これからの日本の姿かもしれない。
アメリカ合衆国の「51番目の州」になって、こんなことを「支配する」側ではなく、
「支配される側」になって、こんなことや思いを「経験してしまう」、
そんなことを考えた。
歴史とは斯様に皮肉なものだ。
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テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

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