ゼロソー×第七インター 「心中対決」

「古典」を「食べやすく」した、とはこのことか。

 ハコに入ると驚いた。
西鉄ホール、こういう演劇の使い方もありなんだ。
というか、そういう使い方をしたいがためにこういう手段を選んだのか。
まるで、「演劇」という「展覧会」、題材は「男と女の愛のもつれ」なのだろう。

 どうして江戸時代ってこんな「心中物」という「男と女の愛のもつれ」が
たくさんあるのだろうか、と言うか「自由恋愛」というものがあまりにも
ひどすぎる、とでもいうのか、さらには今よりも自由すぎる人々と
窮屈すぎる人々が交じり合った究極の「格差社会」だったのかもしれない。

 究極の格差社会では「理不尽」というものはあまりにも多く、
「私は生存してもいいのか」という問は頻繁にあったのだろう。
もしくは、「今を生きる」ことに手一杯で、先のことが見えなくなっている。
そう考えてみたら「私は堪えなければいけない」と思う時点で
江戸時代より恵まれている時間を生きているのかもしれない。


ゼロソー「曽根崎心中」
 パッと見、ファッションショーのような趣の表演空間。
おしゃれな空間にロックが効いている。
そんな空気で「人を殺す」ということはこういうことか、と
のっけから無表情でガチのギャル口調でぶちかまされたら
ある意味たまらなくなってしまう。
まるで「お人形さん」のような外見でやられるともっとたまらない。

 てか、今の状況に置き換えたらどこぞのお金持ちの坊ちゃんが
高そうなキャバクラ嬢か風俗嬢に入れあげちゃって、
その裏にいるヤバい方々に因縁付けられて「通帳と実印よこせ」と。
さらにはキャバクラ嬢や風俗嬢だって「本当の恋愛」をしたいときもある。
けれど、なかなかうまくいかない。
このうまく行かない感じが「剣呑」という静かで激しい争いになり、
「古典」という骨組みにすっぽりとはまってしまう。

 そういえば、「曽根崎心中」の曽根崎って、今で言う「お初天神」から
堂山町、さらには北新地あたりまでの範囲なんだよな。
で、生玉さんと言うたら大阪城近くの上本町に近いところだよな。
確かに、江戸時代の曽根崎ら近辺は湿地帯で、一つ道を外せば
葦畑、故に土地は腐るほどある、明治時代になって「埋めた田圃」を
市街地化してついた名前が「梅田」、という感じと生玉さんから曽根崎までの
あの近そうで近くない距離感までもきちんと表現できている。

 「欲」と「業」が濃ゆく、複雑に混ざって嘘の付き合い、
騙し合いがエスカレートして、嵌めて、嵌められて、
最後、死ぬしかない状況にまで追い詰められるさまが
薄皮一枚で江戸時代と今までもが混ざりに混ざって行くのと合わさって
「陰」と「陽」が混ざる様にまで般化してしまう。
そうなるとこんなにもおどろおどろしくなるのか。
だから、怒りや悲しみが古典というフィルターを通してまっすぐに伝わる見後感。

第七インターチェンジ 「品川心中」
 ああいった落語もアリだな。
まさしく「寄席」という表演空間。
最近、成田空港に着く飛行機を使うことがあって、
自ずと泊まる場所は上野になって、いつも使う場所の近くに
鈴本の演芸場があることがわかり、ああ、あの場所の空気とおんなじだ、
きちんと「結界」というやつが意識的にできている。

 そんなことを考えながらじわじわと物語に入っていく。
落語を「視覚化」するとこういう風になるのか。
さわりが始まり、空気感を紙にいろいろな形、筆跡、筆圧で書いた
文字をいたるところでばらまきながら一席ぶちかましている。

 そして、そのお話の中身を演劇でリプレイ。
遊女、今で言えばキャバ嬢に入れあげた男が生きるか死ぬかと
振り回される話で、ほんま、こういう商売は金と欲にまみれてしまうと
平気で嘘をつき、みんなを困らせてしまう、という点でいつの時代も同じだな。

 その嘘に振り回されて、翻弄されて、全てをなくしてしてしまう。
愚かって、一体全体なんなんだろう。 
愛って、一体全体なんなんだろう。
嘘って、一体全体なんなんだろう。
こんなことを考えてしまう。
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ジャンル : 学問・文化・芸術

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