劇団ぎゃ。 「ドッペル横丁の長い夜」

「演劇」とは、「居場所」を「作る」と見つけたり。


 ・・・腰がいたい。
ぽんプラザで非常口「四畳半の翅音」を見学して、
期せずして「伊佐錦」ではなく、「伊佐美」を程よく飲み、
エエカンジで寝て、起きて、さあ仕事だと思ったら腰が抜けた。
腰が抜けた、というか、疲れで腰が火を吹いた。
あまりにも痛いので少ししか身動きがとれない。

 けれど、ここ数年抱えていた心の重さは晴れたのだろうか?
そうであっても、なくても、信じてくれる人をとにかく信じるしかない。

 それにしても変な場所から大博多ホールがなくなる、という話を聞いた。
舞台構造、音響、椅子、その他もろもろにおいても老朽化は否めない。
そこのところに関して手を入れるとなるとかなりの銭がかかる。
ついでに耐震化の絡みだなんだかんだあってきついことはよく分かる。

 がだ、ビル運営側、ホール運営側の正式リリースが無いうちに
そういう話を吹聴するのは正直、反則だと思います。
お話がどう転ぶか、わからないのに。
劇団や、カンパニーには内々にお話があるけれど、沈黙。
それが一番賢い。

 駅にも近く、程よいサイズの箱なので、なくなるのはすごく残念だが。

 さて、今回は劇団創立10周年記念イヤーの締めくくり。
正直言って「ぎゃ。祭り」の様相。
受付のお姉さんやら、ホタルさんの着ているものが
過去の公演で使ったものの勢ぞろい。
いろいろな意味で思い出される、とはこのことか。

 この10周年記念イヤーの中でぎゃ。は「歌謡劇」という一つの
ジャンルを確立しつつあるようだ。
以前は「音楽の天才」がカンパニーにいて、その人の作る音楽に
乗せて物語を「奏でて」いたが、最近は演歌や歌謡曲の中から
「今回の一曲」をチョイスして、これをベースにして物語を作り、
いろいろな「アレンジ」という味付け、トッピングを施す趣。

 今回の一曲は「お祭りマンボ」(美空ひばり)
これを生のブラスバンド、圧倒的な光で見せて、聞かされたら
気が付かないうちに物語に入ってしまう。

 それでいて、セリフで使うことばのこだわりがすごいし、
去年の演劇大学で学んだ「身体言語」の要素も徐々にこなれて
「ぎゃ。」の文脈で消化されている。

 見れば見るほど、こないだ見た京都のギアは
徹底的に「身体言語」で押し通した
「静」のエンターテインメントだった、
ということがよく分かる。
そして、ぎゃ。は「ことば」と「身体言語」のバランスは
まだまだだけれど、歌って、喋って、動いてにこだわった
「動」のエンターテインメントになっている。
こんなことを感じてしまった。

 それでいて「演劇」というものの力を伝える、という点で奥が深い。
ある日突然見失った、というか、姿を消した母を探して
「非日常空間」に迷い込む、
その空間はエンターテインメント、その中で生きていけばいくほど
楽しいのはわかっている。
けれど、楽しければ楽しいほど虚しさは膨らみ、
どうしようもできなくなる。

 だから、「どうしよう」を探す「捜索者」と
「何とかしよう」を作る「創作者」という
一見言葉遊びに似て、人間の尊厳まで踏み込んだ物語の作りになっていたのか。

 考えてみたら、演劇、というかエンターテインメントというものは
何を「まっとう」とするか判断に迷うところだが、
「まっとうな場所」に存在することを許されない、というか、
存在できない、もしくは自らの意思で存在することを
拒んだ人たちの「居場所」を作るために存在しているのではないかな、と考えた。
というか、「作る」ことは「探す」訳で、
また「探す」ことは「作る」ことと一体なわけで。

 だとしたら、意地悪な考え方で「作る」ことと「探す」こと、
それぞれをじゃまする輩の「居場所」を消す、というかなくすための
「演劇」という試みもありなのでは、なんてことをうっすらと考える。

 がだ、終演後の「ロビー挨拶」というお祭を見ると
そんなこと、どうでもいいじゃないか、という気持ちになってしまう。
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