演劇集団非常口 「四畳半の翅音」@福岡

サバイバー。

 まどかぴあリーディング公演、鹿児島リーディング公演、
伊佐での実演初演、福岡公演とひと通り見て、感じたことをベースにして
まとめようとしたが、どうもしっくりこない。

 わたしたちの目には見えにくい「仄暗い差別」というものを
「演劇」というやり方で形にして「可視化する」とこうなるのか。
「可視化する」と世の中で起こった出来事の全ては
繋がっている、繋がっていた事がよく分かる。

 こうしたことを感じれば感じるほどツイッター上にある様々なツイートや
フェイスブックで時々見られるへんてこりんなことばに対する
違和感が日に日に強くなる。
なんというか、そのままで受け取れば、「心の栄養になるいい言葉」なのだが、
発している人の「人格」というか、よくわからないものによって
「皆を傷つける、有害なことば」に変わってしまっていることを悲しく思うのです。

 もしかしたらこのことが「しっくりこなさ」の理由だったのかもしれない。

 そんなことを考えていると本編が始まる。

 今までと変わったところは「物語」の距離感。
「収容所」と「カステラ工場」が日ノ丸荘の近くにあった「感覚」だったのが、
伊佐公演の後に「送迎のマイクロバス」が出ている距離感に直されていた。
この塩梅が「事態の深刻さ」というものをより一層表現できている。

 物語の土台は数年前の口蹄疫にまつわる諸々なのだが、
それからあとに起こった東北大震災、福島の原子力発電所爆発、
さらには広島、長崎の原子力爆弾、満州・朝鮮・沖縄・中南米移民、白虎隊、
そして水俣病とハンセン病、さらにはえたとひにん、
さらに広げたらイラン、イラクの化学兵器使用、中東問題、
アパルトヘイト、そしてアウシュビッツのホロコースト。

 人間の内面にまで落としこむと生まれ育ちの問題、
さらには異性を愛しているのか、同性を愛しているのか、
お金を信じているのか、お金じゃないものを信じているのか、
そして、どう生きていたいのか、どうしたいのか。

  自分の意志で「生きたい」と思えばどんなことだってやる。
逆に自分の意志で「死にたい」と思えばそうなってしまう。
「なるようにしかならない」とはいうが、過度な危機感による臆病からくる
「生きていかなくてはいけない」と「すべてはなるようにしかならない」と
ある種の覚悟からくる「生きていかなくては!」の言葉の強さ、
感覚の違いが「生き延びる」と「生き延びさせられる」の差になる。
ああ、これがアリー・セリンジャーとセルジオ越後の違いだったのか。

 ここのところをきちんと分けて考えていたから一方は結果を出し、
分けて考えることが出来なかった方は結果を出せず、
その恨みつらみを鬱屈としたことばにして吐き出している。

 けれども、「生き延びさせられる」人間には「生き延びた」人間のことばは
あまりにもリアルで、刺激が強く、心の奥底へなかなか辿り着かない。
その鬱屈、という共通点はあるけれど。
 
 これらはすべて、「わたし」と「他者」、
そして「異者」との「関係性」の物語だったのかもしれない。
「わたし」と「他者」、そして「わたし」と「異者」の
関係とは一体どこが違うのだろう?
そんなことに対して考察を深めていたら、ひとつの結論に辿り着いた。

 「わたし」は「わたし以外の存在」に対して
少しでも「共通」というか「分かり合えるところ」があれば、
その存在は「他者」であって「分かり合えるところ」が全くないのは
「異者」ということなのかもしれない。
そして、わたしは「他者」というものを必要として、「異者」というものを
努めて排除しようと考えていることを「思い知らなければ」ならないのだろう。

 このことが脳裏にちらついてくると
この「四畳半」の空間が極めてソフトな「収容所」に見えてきて、
その感覚が街から都市、都市から県、県から国、
国から世界と同じ問題がどんどん膨らんでいく。
さらには「胸糸病」というものが「放射能」や「生物・化学兵器」と同じように
「異者」を排除するために用いられた手段なのではなかろうか、と戦慄さえ覚える。

 「異者」として排除されないために、何をすればいいのだろう?
「他者」と「異者」の選別をする存在の考え方を理解する、
そのために「教育」というものはあるのかもしれない。
しかし、そういうふうに見ると「わたし以外の存在」によって
「生き延びさせられる」ということになり、
生殺与奪権をその存在に握られてしまうことになる。

 そうならないために、わたしの中にある全ての知恵を使い
必死で「生き延びる」とこんなにわたしが「強く」なり、
この強さを持てば持つほど「生きて」いかなければならないのだ。

 この事実を感じれば感じるほど、
東日本大震災でうんざりするくらい唱えられた
「絆」という言葉が紙よりも軽く、薄っぺらい言葉に聞こえてしまう。
そんな言葉では論じることのできない、
「繋がり」と「縁」に「呼ばれる」様が凄く出てきていて、
それでもこの「繋がり」と「縁」というものが息苦しく
吐き気がするほど懐かしく、忌々しい。

 そして、自分の意志で「生き延びる」ことを選んだがゆえにあるものは死を選び、
またあるものはカステラ工場という「火葬場」、もしくは収容所自体に火を放ち、
押入れの壁をぶち破ってすべてを掘り出し、懐かしく、忌々しい「繋がり」と「縁」を
一度断ち切り、新しい「生きる・生き延びる」を手に入れようとした。

 その様はあまりにもリアルで、残酷だ、けれどもどこか美しい。
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