KVA劇団川口さん家のみそスープ「星降る夜になったら」

ノスタルジー?そんなこと、知ったことか!!

イマドキの若い子にとって、スピッツとかMr.Childrenという「音楽」は
「若き日の失われた思い出」に浸るためのノスタルジー・ミュージックなのか!
そんなことまで思い出しちまったい。

この演目の元版たる万能グローブガラパゴスダイナモス版の初演(@イムズホール)と
再演(@キャナルシティ劇場)では「思い出に浸りきっている最中」と
「思い出から抜け出して、新しい人生のはじめかたを模索する」の違いはあるけれど、
客入れの音楽のチョイスからして、ノスタルジーが匂いだしていた。

けれども、今回は元版とは全く真逆の「ノスタルジー?そんなに後ろばかり見てんじゃねーよ」と
言葉は荒いが「諭されている」空気感がなんだかんだ言うてもそこにできている。

あと、空間のつくり、基本の色が白・白・白一色、あとの色は
演者の動きや関係性で見手の皆さんに「頭のなかで」色を付けてもらえ、
というある意味演者にとっては過酷な環境だ。

万能グローブガラパゴスダイナモスの初演・再演、ワタナベエンターテイメント福岡オフィスの
若いもんがやったやつ、そして、今回と都合4回見て、やっとこさこの戯曲の肝が見えた。

根っこに「ある程度年を取って、新しい人生を進み行く必要がある、がどうなるものか危ぶんでいる」
わたしたち、という「存在」がいて、この「存在」は「危ぶんでいる」不安が日々募って、
「不安」に転じ、その不安を紛らわせるため「ノスタルジー」という作用を求める。

「ノスタルジー」という作用を求めて、「同窓会」と言うものを行うように仕向け、
場所を「山奥の貸別荘」にする、という(ここで冒頭の過去と現在が「混ざること」に意味がある!)
「装置」の設定を開演までに見手に見せて、納得してもらう。

あとは110分のうち90分を「生と死の混淆」という流れをコメディにくるんで見せて、
「ああ、わたしは今まで言うべきことを今すぐに言わず、未完として心の奥底に抱えてきたのか、
この「未完」が「思い出」に転じるならまだしも、「こうすりゃよかった」という
「未練」として一生涯尻尾のようにぶらぶらぶら下げて生きるから、人生うまく行かねぇんだよ。
これを踏ん切りにして「迷わず行けよ、行けばわかるさ」とラストまでの時間でまとめる。

この肝をガラパは仕掛け満載の空間で、ある意味、滑らかに言葉という不安定なボールを
ハンドリングミスなく回し、適切な人員でモールとラックを作り、スマートなボディコンタクト、
ここぞというところでうまくキックを使って陣地を稼ぐ、
いわゆる「テスト(マッチ)・ラグビー」の範疇で見せた。

対して、今回はそれよりも結構なハンドリングミス、粗っぽいボディコンタクト、
アタックのアイデアに詰まってキックという「飛び道具」を多用する、
いわゆる「年末年始の大学ラグビー」の範疇で見せた。
だから、ひとつひとつが不思議な「重さ」を持っていた見後感。



離れてみる。

 ちょうど一年前、たくさんの行き違いがあって、今まで働いてきた仕事を辞めた。
というか、ものすごく窮屈になって、この窮屈さから解放されたかった。

 たしかに、四国遠征をメインにして、大阪や名古屋で演劇を見て、
昼間から酒かっくらって、のんびりお風呂に入っていた頃はまあ、解放されていた。
けれども、行ったり来たりしながら、次の段階を考えたら考えるほど、
別の窮屈さが産まれてきた。

 大阪で人生やり直すのか、福岡で人生やり直しをするのか。
福岡で人生やり直しをするにしても、仕事もやり直しの支援も
きっちりしてもらえなさそうだったので、大阪でそういう場所を探し、
マイナスからのスタートでもいい、とにかく・・・と思ったが、
入り口が固くて、仕方が無い、福岡でやり直そうと腹を決めて
合間合間に演劇の丁稚奉公をし、見学、面談、体験、聞き取り、
演劇の丁稚奉公、ラグビー。

 そうこうしているうちに年末、やり直す場所でやり直す作業を
まずは「自分の歴史」を話し、そこからしくじりを見つけ、
修正して、また見つけては修正して、の繰り返し。

 繰り返しの中で、解決することが見つかったところで
場所が「大人の事情」で無くなる、またかよ、と思って
嫌な気持ちになるが、そこから「熱くて激しい」三ヶ月が
始まり、演劇を削らないと動かない状況になっていた。

 ・・・今まで、何もかもやろうとして、しくじったんやね。
削って自分の持っているすべてを自分に注ぎ込んでやらないと
どないしょうもならないんだな。

万能グローブガラパゴスダイナモス 「星降る夜になったら」@キャナルシティ劇場

私たちは、未練の尻尾と言うやつをお尻の尾てい骨、その延長線上に
ズルズルと引きずって生きている。

 ・・・この事実をもう少し早くに知っていたらこの演目初演、
イムズホールの時から感じていた苦しみからうまく脱出できたのに。

 更に言えば、ほぼ一年前、ワタナベエンターテインメントの福岡オフィスの
若い衆、女子部のメンバーで言えばえもとりえねーさんと上杉あずあず
(あずあずはRKB所属の野球女子タレントとして生きる道を見つけたから、いいや。)
以外のフルメンバーにお笑い芸人を加えた座組でこの演目をやったのを見ても
物語を動かすスピード、展開力の違いしかわからず、悩みの元にどうアプローチ
したらいいのかすらわからなかった。


 見て、すぐ、ガラパはこの演目の再演をぽんプラザホールで
演って欲しい、外の劇団、というかカンパニーがやるところを見て、
ガラパの強みがようやらやっとわかって、その強みを「ぎゅっと」したところで
鍛えて、次につなげてほしいやね。
そんなことすら考えていた。

 けれども、現実、というか、事態は私の思い、というか、
想像を遥かに、斜め上の展開で推移した、あまりにも残酷なほどに。
「月ろけっと」の東京公演、出費を洗い出して、行って、帰ってをして、
次は「星降る、5月3日、キャナルやで」という第一報を受けたときは
なんとか先行販売でチケットを買える、と踏んでいた。

 しかし、エージェントさんと出費の確認をし、
なんだかんだと膝詰め談判をし、気がつけばありとあらゆるところで
出費に制限がかかる、なんとか残務整理としてエゴナクの「ふくしゅうげき」と
ミクスタプレオープンのウルブズ戦、トラッシュマスターズ「たわけ者の血潮」だけは
見に行かせてもらえたけれど、その他の日程は削り込まれ、
劇作家協会と演出者協会の年会費は「払込不能による除名上等」まで(以下略。

 その分、自分が抱えている「未練の尻尾」というものがきっちりと見えて、
それをばっさり斬って、新しい人生を歩まなければ、
人生というものはダラダラ生きてしまい、おんなじことの繰り返しに
なってしまうのだ。
この問題に真正面から取り組む、「濃くて熱い」数ヶ月を生きて、
久し振りの演劇。

 劇場の中に入り、中に配置されている装置や構造を見て、
この演目自体がぽんプラザでも、イムズホールでも、
「物語を伝える」ためのキャパシティを遥かに超えてしまい、
キャナルシティ劇場クラスじゃないと見手に伝わらないくらい
すべてが大きくなってしまった。

 スカウティングポジションから自然な形で「額縁」に
すべての画がピタリとハマる、目でしっかりと流れを捉えられる、
そういう安心感を抱えながら物語に入る。

 まず、物語の前提として、この話は前作の「馬鹿野郎、そこは掘るな」と
色んなところで微妙につながっていることを挙げなければいけない。

 生きて、別れて、出会って、くっついて、
裏切って、裏切られ、傷ついて、死んで、
板の上になかったのは妊娠して、生まれる、というところだけ。
 
 これらを「馬鹿野郎、そこは掘るな」は洞窟という「閉ざされた空間」で
見せて、なんか微妙に「未練の尻尾」をズルズルと引きずって生きている、
というかズルズルと引きずって生きていけや、若者よ。
わたしもズルズルここで、てな塩梅に「残された者」がメッセージを伝える。

 しかし、「星降る夜になったら」では、
わたしたちはあがきながら、もがきながら生きているじゃないか、
戦い続けているじゃないか、それって結構かっこ悪いことじゃないと思うよ。

 もしその戦い、というかもがき、あがきの最中に死んでしまったら
「次の局面」は「予定」のまま終わってしまう、
それはそれで少ししんどいし、どこかカッコ悪い。
(かっこ悪いから、芸人はほかの誰かにすべてを託し、
 楓さんはあの夫婦の「子供」として新しい生を生きるだろう)

 人間同士が出会えば、いつかは離れるし、別れる。
お互いがお互いの領域に踏み込めば踏み込むほど、その分
「離れる・別れる」という「おわり」を忘れてしまいやすくなる。

 忘れる、ということが平気になる、ということが
「未練の尻尾」を引きずって生きている、ということ。

 わたしはなにかとても悔しくなるときがある。
それが嫌だから、強引に展開を作って生きてきた。

 逃げれば繰り返すし、立ち向かうとごまかしやすくなる。
知らないふりをしていても、なんとなく全てを知っている。
知っているから道具として「怒り」を使いたがるし、
怒りに突き動かされて生きてきた。

 けれども、そうしたことでわたしはわたし自身を前に進めることができなかった。
いまは、不格好でも、無様でもなんとか前に進んでいる。
それでいいじゃないか!!

 

トラッシュマスターズ『たわけ者の血潮』

「たわけ」とは「戯け」なのか、それとも、「田を分ける=田分け」なのか?

 表演空間に足を踏み入れたその瞬間から、場に漂う「空気」が
ものすごく濃厚だった。
更に言うと、客層そのものもいつもの福岡演劇より5歳程度年長だ。

 この濃厚な空気に慣れてくると、表演空間自体に「格」というか、
「格」というものが生み出す「差」という意味での「格差」が
どこかしこに隠されている事を知る。

 表演空間の作りは大まかに分けて、「書斎」と「応接室」という
ふたつの「部分」に分けられているが、それぞれの部分が「フラット」に
隣接しているのではなく、「書斎」の部分を「一蹴り分」高く作っている。

 書斎と応接室にあるアンティークな椅子だってそうだ。
応接室の一人がけの椅子は主人が座り、長めのソファは客人用、
そして、背もたれのない椅子、というかオットマン兼用のそれは
その場で「格の低い人」が座る。

 書斎の丸テーブルに沿っておいてある椅子と書斎の机においてある
椅子だっておんなじ形をしているのだけれど、肘掛けに布ぶとんが
貼ってあるのか、否か、で座る人の「格」というものをそれとなく示している。

 そう言う空気の中、お話のキーになる若い男がひとり、
書斎の机に向かい、ある本を眺めながら田山花袋の「蒲団」のように
「思慕の念」という「感情」に身悶える、その最中に福岡を代表する
劇評家が空間に入り、自らの座る場所を求めてまろび歩くさまが
なんとも言えないなぁと感心していると「親子の会話」が過ぎ去り、
気がつくとある新劇公演初日祝の二次会へ。

 「演劇」としての会話の端々にも、入れ子構造になっている「戯曲」にも
「劇場」と呼ばれている空間から重い扉一枚隔てたところにある
わたしたちがいつも生活している「現実」が存在している。

 まずは「ヘイトスピーチ」から始まる「民族差別」問題、それから
「経済的、文化的、思想的」な「格差」が進行している問題、
このふたつが混ざりあって、「もう戦争をして、生きるべき人間を
  選別しなければ社会は立ち行かない」という空気と、
それをなんとか押しとどめようとする空気のそれぞれがそれぞれを
「拒否」していく、その「言語的手段」としての「本音と建前」が
「見える格差」を使いながら可視化され、思考が整理されていく。

 この思考が整理されていく様を見ながら、わたしは、結婚はしているが
月一度会うことができたら御の字、これが数年続いている存在と
昨日、あるテレビドラマに関連して話していた、
人が生きている「現実」を「生きているか」の様に「演じる」ことが演劇なのだよ、という
話とおんなじじゃないか、ということと、「平和」ってなんなんだろう?
日本国憲法って、基本的人権の尊重って何なんだろ?という疑問が同時に湧き上がる。

 この疑問は正直いうと、人それぞれが異なる「答え」を持ち、
その「内面的」な「答え」に沿って人生を生きることでしか解決しない。

 けれども、その「解決手段」にそれぞれが取り組まず、
取り組めないから異なる「答え」や「生き方」を尊重できず、
あるいは、良きにせよ、悪しきにせよ、「タブー(禁忌)」という形で
触らない、触りたくない、と「無かったこと」にする。
そうして、他者に対して自らが「生きる」中で得た知識や知見を
振り回して喧嘩を売る。

 この喧嘩が「医療用大麻(マリファナ)」の合法化をめぐる
なんだかんだに集約され、お話には現れないが「喫煙・禁煙」を
めぐるなんだかんだにまで広がって、とにかく、生きていることが、窮屈になってきた。

 もしかしたら、わたしたちは「何かと何かを比較する」ことを通じて
「差別」という活動を知らないうちにやっていた。
もっと言えば、「わたしはあなたとは違う(優れている・劣っている)」と
「差別」することで、自らの「主義・主張」を正当化している「だけ」かもしれないよ?
「他者」というものを許せなくなったり、許せなくなることで他者を傷つけたりしながら。

 そう言うふうに「自由」を追求して、極めちゃうと「たわけ者」になっちゃう。
「戯け」という意味での、ではなく「田を分ける=田分け」として。
本当は主義主張は異なろうとも、ひとつの「理想」のために力を合わせることができる、
否、しなくちゃいけないが、そうしたくないから「繋がり」を絶ちたい、それが自由。

 「繋がりを絶つ」ことで産まれた自由を知って、伝えたから
祖母はその苦しさを紛らわせるために大麻を使い、その子どもたちは
変な「言葉遊び」という学問しかできなかった。
それが何より証拠には「翻訳家」たる娘(若者にとっては母親)が
「格差」を「超える」ことが結局出来ず、心乱し、狂うしかできなかったわけで。

 息子たる若者はなにか、それ、おかしいんじゃね、と思い、
すべての「現実」に理由や理屈、必然性があることを
考えようや、と考えていたのかもしれない。

 さて、私達はどうなんだ?

ブルーエゴナク「ふくしゅうげき」

題名を漢字で書くと、「重厚」かつ「濃厚」な物語。

  「ふくしゅうげき」って、なんともはや、えげつない題名だ。
ひらがなで書くからよりえげつなく聞こえてくる。

 そういえば、去年の丁度おんなじ頃、松山でそめごころ見て、
船で小倉に帰り着いて北芸で不思議少年見ることになっていたら
松山にたどり着いて、シアターねこに来てから重苦しいほどに
深々と寒さがやってきて、見終わって、道後温泉まで行って、
足湯で暖を取ってから小倉行きの船に乗ると、明日の福岡行き
高速バス雪のため始発から運休、と船内アナウンスが。

 なんかやばいことになりそうと、いろいろ考えていたら
船はもう小倉、駅前まで歩いて、マクドナルドで飯食って考えて、
とにかく北芸まで行こう、ということになって、数時間待つと、
もう、シャレにならないくらい雪が降り始め、路線バスはチェーンを
シャリシャリ言わせながら走っている。

 チケット代のお金で快速電車に乗って今なら帰ることができる。
「演劇を見る」ということよりまずは「無事に家に帰る」ことを優先させてしまった。

 それから一年後、深々と、というか深、という寒波がやってきて、
またおんなじように北芸に向かっている。
大橋でのきらら「はたらいたさるのはなし」、見に行く前に
うだうだになったうどん粉の脳みそでたさきこぱるに捕まり、
「チケット買って」と言われたものだから(以下略。

 そういうことがあってハコのなかに入ってみると清々しいくらいに何もない
しかも、程よい高さで区切られた素舞台が一つ、そして四隅にマイクロフォンが2つ、
明かりはなんか薄ぼんやりしている表演空間が目の前に広がっている。

 今までのエゴナクは「ラップミュージックと身体言語の化学変化」を
全面に押し出したいわゆる「クラブ系演劇」を持ち味にしてきたが、
今回はそれよりも何か「枯れた(いい意味で)」空間作りをしている。

 その空間で繰り広げられるはとある「中華料理店」の「職場環境」という
ある意味「ヒエラルキー」と呼ばれる「上下関係」というか「序列」というものが
「暗黙の了解」の上に成立していて、「ある程度」はなんとか上手く行っていた。

 しかし、この危ういながらも成立していた「ヒエラルキー」が
何らかの事情で「壊された」時、どうなるよ?

 今まで唯々諾々と「従っていた」裏に隠れている数多くの
ものすごく「ドロドロ」とした負の感情がみなの心の殆どを占め、
こうなっちゃうと「本来の仕事」ができなくなり、その隙間を
「盗み」やら「不倫」とか「人殺し(肉体的・精神的両方共)」、
そして「放火」という危ない方向に行動の矛先を向けてしまうものだ。

 てか、板の上で90分延々と「わたし自身が抱えていた本質的問題」を
見せつけ、直面して、どうやり過ごし、乗り越えていくか、考えな。
といわれている感じだ。

 どどのつまりは「負け」に対する「嫌だ」という感情や、
「同じだ」ということに対する嫌悪感というものが
人生そのものに暴力や、暴言、さらには「不寛容さ」と言った
本来入り込めないものを入り込ませてしまう要因だった。
そして「被害者」もいない、ましてや「加害者」もいない、
底にいるのは素の「わたしたち」だった。

 こういうふうに毎日の生活にありがちな憤怒と憎悪、
これらの結果としての「行動」が「行き着く先」を
ドフトエフスキーの演劇的文脈で表現しているけれど、
重くもなく、かと言って軽くもなく、生きている重さで
コンテンポラリー演劇として、見せるとこうなっちゃうのか!!

プロフィール

itumo25254you

Author:itumo25254you
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