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月光亭落語会「梨の礫の梨」

和解、あるいは赦しという、次に進むために必要な物語。

 一度こういう場所でゆっくりとお酒飲んでみたいな、という空気ができている、
恐ろしいくらいにギュッとしたスタンドバーの作りをこれまた風情のある
アートビルディング内にあるイベントスペースに持ってきたら、なんだかモダン感満載。

 さて、ここ数年、大阪では焼酎亭、ここ福岡ではソネス亭、この月光亭と
「演劇人による落語公演」というものが盛んになっている。
・・・考え方次第によっては、落語というものは「根多」という「戯曲」を
演出・私自身、出演・私自身、という形で、動きも座布団の上に正座し、
上半身だけ動かして板の上で演じる、という「究極の一人芝居」なのかもしれない。

 「究極の一人芝居」で身につけた「技術」をホームグラウンドたる
「演劇」に還元してみよう、という今回の試み、相方は出産後初の演劇を
やろうとしている14+のゆきまるだ。

 まずは「拒絶」のお話と言うマクラから絶妙の話芸が炸裂する。
電車の中って、いろんな拒絶が漂い、なぜかしら火花が飛んでいる。
けれども、これらの「対立」に対してささいな衝突はあるけれど、
これがもとで傷害事件とか殺人事件が起きた話をなかなか聞かない。
ということは、みんな、いろんな拒絶を受け入れてはいるのだろう。

 本当は、自分だって電車に乗った時、自分の隣の空席に
カバンなり、自分の荷物を置いて「わたしはわたしのとなりに誰も座ってほしくない」と言う
ある種の「意思表示」をしたいのだけれども。
板の上では逆に「わたしはわたしのとなりに誰も座ってほしくない」と言う「意思表示」に
抗って、というか抗おうとして、結果降りたかった駅で降りることができず、
実は、抗っていた、抗おうとしていたのは「わたしの自意識過剰」だったのかもしれない。
その考察を裏打ちするかのように「座席の譲りあい」と言うケースまでも
絶妙の話芸で「聞かせて」いる。

 この冒頭部がサキトサンズの元版、最初に見た長崎では
阪急神戸線、西宮北口から電車に乗り、阪急三宮で降りたかったのに、
会社境界線の花隈駅を超えて、高速神戸で相手が降り、
自分は新開地まで行っちまったよ。

 次に見た大阪・和泉大宮では阪神なんば線、大阪難波駅から電車に乗り、
甲子園か、阪神西宮で降りたかったのに、気がつけばこれまた新開地だよ、
山陽電車の西代駅まで行きそうな勢いまで空気が変わった。

 さて、今回の月光亭版、JR九州鹿児島本線かと思いきや、
西鉄天神大牟田線、大橋あたりから電車に乗って、二日市か小郡あたりで
降りたかったのに、久留米、花畑、しまいには大善寺、そこから先は単線だよ。
そう言う空気に見事に変化している。

 この空気の中、自然な形でゆきまるが入ってくると、驚いた。
・・・子供を産んで、美しくなっていやがる。

 「自意識過剰」をめぐるひとり酒から「本当は今、そこにはいない」誰かとの会話、
過去に起こった、どうしようもならない、もしくはどうしようも出来なかった出来事についての考察、
突き詰めたら母が突然わたしの目の前から消えたからこんなに大変な目にあった、
責任取ってくれ、と「見えない」母に対して言い寄ってくる。

 ここにフェデリコ・フェリーニの「道」という映画と思われるお話が重なってきて、
「運命」に対してどうしようもできないわたし、とそれでも受け入れて
生きていこうとするわたしが一つの体に入っていて、その相反する思いが
いつもいつもぐるぐるしていて、ぐるぐるがひどくなるとお酒を呑んで、
毒を吐かなければ、やってられないのだ。

 過酷な状況を何とか無理やり生きてきたけれど、疲弊は相当なものだった。
なのにあなたはそこから逃げた、私は逃げられなかった。
けれど、私はもっと、もっと、耐えてやる、という思いが最後のマッカラン2本に
現れていたのだろう。

 色々な思いがいろいろな変化をした様子ってこんなかんじで、
変化した先に見える「景色」を丁寧に、丁寧にノイズを取ってみせたら、
「過酷な人生を生きなければいけなかった」女性と
そうなるきっかけを作った母親との和解、というか赦しというか、次に進む物語と
いうものに変化してすんなり心に染み入ってしまう。

劇団きらら「はたらいたさるのはなし」

「マイノリティの悲哀」と言うには明るすぎて。

  「パーソナル・スペース」と言うものに対して、私たちは鈍すぎる。
・・・のかもしれない。
とくに、「空席を埋める、ということ」において。
段差はあるけれど、やっぱり前の人の頭は気になるし、
その気になっているところをうまく避けるポジショニングにも気を使うし、
最前列がいいかな、と思っても、後ろの人のパーソナル・スペースを
「侵害しない」ようにどうしたら良いか、迷ってしまう。

 そうして「短い時間」で作り上げた「パーソナル・スペース」を
「異なる」人はあっさりと壊してしまうのだ。
「ここ空いていますか」、なんて言われたら、
そりゃ、口ではどうぞ、というが、肚の中では
こいつ、俺に「宣戦布告」してやがる、もしこいつが
「演劇関係者」だったら、こういう人と仕事したくない。
というか、こういう人の作る「作品」という人生はつまんねぇだろうな。
更に言えば、そう言う人達とおんなじ空気吸いたくない。
吸ったら、わたしもおんなじようにつまらないものを作り、
つまらない人生を生きてしまいそうになる。

 ・・・それを人は「普通」というのかもしれないが、
わたしはまだわだかまりが残ってしまう。

 毒吐きはここまでにして、本編に入ろう、本編。

 「うどんの自販機」に関しては、高速道路のサービスエリアや
パーキングエリアにごくごく当たり前にあった頃から
存在は知っていたが、親、とくに父がそう言う食べ物を
食べさせてくれなかった。

 そして、大きくなって、どこにでも行けるようになったら
当の自販機コーナー自体が「絶滅危惧種」、と言うものになってしまった。
というか、この「バブル景気」を通り過ぎた30年で「せかい」や
「にんげん」が大きく変化してしまったんだよなぁ。

 今はYou Tubeという便利なものがあって、
うどんの自販機が稼働している様ばかりを撮りつづけた動画も
たくさんあって、どういう風に「仕込んで」、どういう風に「商品化」されるか、
・・・細かいディテールはここでは問わないことにしよう。

 本題、なぜ、うどんの自販機が減ったか?
機械を作るメーカーの問題、というか、「機械の手入れに手を掛ける」より、
「低賃金・長時間労働」で人を「使い潰した」ほうが安上がりだ、と
資本家(経営者)が気づいてしまったこと。

 「使い潰されてしまった」人が増えると、社会はどうなる?
「消耗された」わたしが「消耗された」他人と触れ合うと、
ものすごく摩擦して、緊張して、退っ引きならない事態になってしまう。

 だから冒頭部のせりふ、「24時間チェーンの店もあるのに、
自販機のうどんを食べに行ってしまう」という言葉につながってくるのだ。
温かいものを腹に入れて、落ち着きたいときまで、ささくれ立ちたくないよ。

 このやんわりとした、穏やかな空間で、マイノリティ、というか
「発達障害」や「ADHD(多動)」、「自閉症」、「軽度の知的障害」、
そういうものをたまたま抱えた人たちが抱える生きにくさを明るく、
とにかく明るく板の上で、表現している。

 わたしも、縁あって、というかワケアリでそういう場所で
初めて大掛かりな「人生の棚卸し」を始めた。
その環境が程度の差はあれど、みきてぃが
この戯曲で描いていることとおんなじことなのだ。

 「やらないかんことは今(今日)やる」とか
板の上で繰り出される言葉やもろもろの動きとおなじものを毎朝 見たら、
こういう「自立支援」のやり方として、「当事者同士による相互扶助」も
あるのだな、というか、うまく「自己開示」ができれば(以下略。

 「普通」というか「定形」って一体なんだろうね?
その言葉を盾にして「普通」とか「定形」の発達ができた人たちは
他人というか、「異なる」人に「服従」を求めているんじゃなかろうか?
そういうことをわかって、表面上の明るさに沸いている客席を見て、
なんだか悲しくて、切なくなってきた。

 普通だ、普通だなんて言っていい気になって、
マイノリティが生きることに対して四苦八苦しているさまを笑ってはいるけれど、
マイノリティであるが故の生きる覚悟、や踏ん切り良くしなくてはいけない事情に
ついて、ほんの少しでもいいから想いを馳せてくれよな。

 「マジョリティ」の中にいると、「覚悟できていない」、「覚悟に踏み切れない」、
そして「覚悟することに躊躇している」わたしを見なくて済むから、なおさら。

万能グローブ ガラパゴスダイナモス「月ろけっと」@福岡

「ああ、お前は一体何をやってきたんだい?」
「そして、お前は一体何をやらなかったんだい?」
 
 あたらしいがらぱは、どこかてごわいぞ。

 ガラパの演劇スタイル・システムは実際に当たったり・当てたり、
捕まったり、捕まえられたり、押したり、押されたりなどの他に
身体の圧だけを相手に「残す」フィジカルコンタクトを使い、
ラグビーボール状になっている「扱い方によっては不規則に弾む」言葉を
つないでいくことで局面を作って、積み重ねる「コメディ」なのだ。

 某地方局の企画で、この演劇スタイル・システムを
デルモーズにいる男の子の手引で、7にんせいだんじょこんごうふっとぼーるの
「ふくおかだいひょう」はしもとまい「せんしゅ」(とあえて呼ばせてくれ)が
「体験する」趣向をたまたまみることになったのだが、「せんしゅ」だから、
この場にハマっているよ。

 更にいうと、かのじょの「きほんとくせい」が「ぺねとれいと(とっぱ)」がうまい、
しかも「軽い」ではなく「重い」ぺねとれいとをもちあじにしているので、
ものがたりの「すいしんりょく」が結構重く、力強い。

 いりを「おもく」みせることでうまれる「すいしんりょく」もありなのかな。

 そういうことはさておき、今回はこの「基礎・基盤」に「運と欲」、
そして「寿命」とは何か、「時間」とは何か、ということを我々に問いかけている
ゲーテの長編小説、というか戯曲の「ファウスト」を元ネタに使い、
ここに「テラスハウス」やらに代表される「リアリティ系ドキュメント番組」を枠組みで、
オチは漢文の「一炊の夢」を仕込んだら、「コメディ」という枠を軽く飛び越えた、
壮絶な演劇に化けてしまった。

 「業」と「欲」が深ければ、夢は叶うと、誰かが言った。
・・・けれども、人間は夢をかなえるために何を「喰いつぶす」のか?
「運」というか、「時間」、それも限りのある「持ち」時間。
この喰い潰す様を表に出した、「どうでもいいこと」からじわじわと
「欲」を叶えさせて、本当に叶えたい「欲」を徐々に見せていく。

 さらに「学問」やら「技術」、もっと言えば「才能」というものを
得るのも、ある意味、「環境」や「人間関係」、などと言った
「偶然」に左右されて、この偶然にたまたま恵まれたのか、
そうでなかったのか、どっちかだった。

 ・・・結局、わたしは限りある「時間」をどのように使ったのか、
その成果が「いま」だったのかもしれない。

 熊本よりもよりシェイプしていたから、こういうふうに物語がわかりやすくなっている。
わかりやすくなっているから、人間関係を始めとした「知的な迷路」にはまり込んでしまい、
また見たくなる、まるで麻薬のような演劇だ。

ゲキダン大河「海辺の伝説」

「差別」というものは放置すれば、全てを無くす。

 甘棠館でこの公演がある、と信じ込んでいた。
おまけに前の前の日に大分で九州演劇ミーティングがあり、
こっちは四国でハイ・パフォーマンス・マネジメントを学んだことと
どうすり合わせが効くか、ということでいく、とは考えたが、
ギリギリまで生き渋ってた。

 すり合わせをし、雑談をして、程々のところで珍しく、
そうだ、いつものわたしは終了間近までズルズルと参加して、
わけのわからんことになる、そこをこらえて電車のある時間帯で
すっ、さっと帰る。

 その妙なしんどさを抱えつつ、病院に行き、なんだかんだして
ハコにたどり着く、そしてドアがあくまで半分死んでいる。
半分死んでいると妙なところでぞろぞろと人がやってくる。

 ・・・おいおい、そこに並ぶのかよ?
恐ろしく疲弊した身体を引きずりつつ、列の後ろに並び、
ドアが開いて中に入り、位置に座り、ぼーっと始まるのを待つ。

 開演間もなくでもぞろぞろと人が前の方、前の方へとやってくるよ、
終いには開演すぐの状態でも数名目立つ入り方で。
こうなってしまうとますますアウェイ感が募ってどうしようもない。

 さらに、戯曲自体が博多女流作家特有の妙な気持ち悪さを帯びている。
そうだ、夏樹静子だって、高樹のぶ子も、さらには滝悦子もだ、
博多女流文学ってやつはどうも気持ちが悪くて、手にして、読んでも
ページの最後まで一回は読むが、「もう一回」へと踏み込めない。

 ・・・ああ、これだったら林真理子の「白蓮れんれん」を買っときゃよかった。

 そんなときに感じていた「正義の押しつけ」が持つしんどさ、
何とも言えない重苦しさ、というやつが昭和40年台、という
「アンシャンレジーム」と「ヌーベルレジーム」が同居している
時代と、空間のつくり。

 この白坂家という「アンシャンレジーム」が家長たる父が、
偶然の事故で死んで、お金のやりくりがままならなくなり、
いろんな「貸し」が増えて、返せなくなる。

 「金策」をめぐる攻防戦、「体裁」を整えるなんだかんだ。
そこに漂うは他者を見下す、わたしが見下される感。
お金がない、お金がある、ただそれだけで誠実でない振る舞いができる。
それはとても恐ろしい。

 見下した、見下された存在が、電話が止められ、ガスが止められ、
電気が止められて、お金をめぐるなんだかんだで差別の報いを受ける。
そうなると人間の本質がじわじわと見せられ、「アンシャンレジーム」の中に
閉じこもっていたら、いつの間にか世の中は「ヌーベルレジーム」だった。
そういう変化が絡みに絡んで、恐ろしくタフな演劇を見た。
・・・全てをなくして、どう生きんねん?

木ノ下歌舞伎「勧進帳」

"Brake the Line" 「見えない」壁をぶち破れ。

 わたしたちはわたしたちの内外(うちそと)に「境界線」というものを
わたし自身で引いたり、外にいる何者かによって引かされたり、
そういうふうにして、生きているんやね。

 こういうことを感じざるを得ない出来事の集合体の中で
もだえ苦しむことが最近多くなった。

 現に、フラットな世の中に境界線を引こうとして、
「境界線がある方が何かと楽だ」とうそぶく方々と
混ざって生きるのが非常にしんどい。

 更にいうと、じぶん自身で何か、フラットなところに境界線を引くと
一時は過干渉、と言うものが減って、すごく楽になる。
けれども、他者ももちろんのこと、異者も「境界線」というものを引いていて、
わたしの「境界線」と他者・異者の「境界線」というものが
真正面からぶつかるとものすごく大変なことになる。

 正直、しんどいねん。
こういうことを考えつつ、久しぶりに北九州で演劇を見るために
高速バスに乗り、芸術劇場へと向かう。
 
 そういえば、木ノ下歌舞伎は前作、「義経千本桜−渡海屋・大物浦−」を
見に、というか、少々ややこしいことになるが、まず、ラグビーのワールドカップ
前準備のため、勧進元たるワールド・ラグビーが恥ずかしいことにならないようにと
2016年シーズンから2シーズン、6月と11月に強い国と「優先的」に
対戦「させてあげる」試みの一回目、トヨタでの対スコットランド戦にいく、と決め、
その間に何を挟むか思案していたら、いろいろ気になっていた木ノ下歌舞伎が
その近くでやる、ということを掴んで、日程にくっつけた。

 んで、木ノ下歌舞伎もラグビーと同じく「木ノ下大歌舞伎」という
挑戦を始める、その流れで秋は北九州にやってきた。

 演劇以外のことは置いといて、小劇場の中に入ると、
・・・ものすごくギュッとした空間はさることながら、
空間自体の作り方に驚いた!!

 ざっくりいうと、高級アウトドアブランドのというかファッションブランド、
その来シーズン春夏モノの発表会、というショーが始まりそうな感じ。
目に見える色は白と黒しか存在していない。

 そういえば、飛ぶ劇場は 「機械が見れる夢が欲しい」という演目で
こういうような空間の使い方をしてはいたが、違うのは一点、
飛ぶ劇場は表演部の作りが「平舞台」、木ノ下歌舞伎は「尺高」と
「常足」の中間を取った「高さ」として作っていること。

 この「高さ」が物理的な「境界線」としてふたつの客席部を「分断」し、
「時代」というものでも「現在と過去」という「混ざりそうで、混ざらない」
心理的な「境界線」という意味で効いている。

 そして、バサバサと鳥が飛び立ち、鬱蒼たる森の中の空気を
空間の中に充満させて、本編が始まる。

 さて、この「勧進帳」という演目、
「勝てば官軍・負ければ賊軍」という世の習いとはいえ、
「手違い・間違い・勘違い」で賊軍になってしまって道の奥、
転じて陸奥、まあ、北の方に逃げようとする源義経、
そして弁慶と家来たちが「安宅の関」という「関所」、
現在で言えば「内国に存在する国境(くにさかい)検問所」の
責任者、富樫という公務員というか官僚と押し問答をする、それだけ。

 まあ、国境検問所にいる、担当の公務員、というか、
官僚というものはおしなべてマイルドなヤンキーというか、
スタイリッシュなヤクザ、カラーギャングなのかもしれない。
故にものすごくお行儀が悪く、源義経一行が山伏に変装している、という
情報を聞きつけると、山伏を見れば義経と思え、と言わんばかりに
富樫の手下は片っ端から山伏を惨殺してしまう。

 ・・・もう少し頭使って、生け捕りにして、と富樫はいうけれど、
何か、自身の栄誉栄達のために義経を利用している。
そう言う不穏な空気を醸し出している中に、義経一行、登場。

 この義経・弁慶の取り合わせが、実際にそうだったのかもしれない、
と思わせるような、弁慶の偉丈夫ぶりと義経の中性的な身のこなし。
というか、「女性」と「男性」という「境界線」がはっきりしたのは、いつのことだろう?

 そういうことに思いを寄せると、表演部ではいつの間にか、
義経・弁慶組対富樫の2対1変則タッグマッチが始まっているよ。
さらに、4人のセコンドが細かく、細かく、役割や立場を変えながら、
いろいろな色調を頭の中に表出させている。

 こうなっちゃうと弁慶の繰り出す術中、というか巧妙に組み立てられた
「策略」というものに富樫も、客席の見手もズルズルと引きずり込まれてしまう。

 まずは義経の特徴を書き出した手配書がでているのか、
でていないのかよくわからないが、この「曖昧なところ」を
突いて、義経を「強力」という、カタカナでおしゃれに言えば「シェルパ」、
身分的な「境界線」を飛び越えたやり方で変装させた。

 弁慶はもともと山伏の修行をしていて、作法も、勧進帳にも慣れている。
故に富樫との問答もいとも簡単に答え返し、その間、
身分の低い「振り」をしている義経は一言も喋っては「いけない」から
正体がバレることもない。

 そして山場の弁慶が主従関係を敢えて飛び越して義経を杖で打ち据えるところ、
この「情け容赦ない打ち据え方」、というところがこの演目の肝。
「主従関係を超越した信頼関係構築」が今、そこに成立している。

 この「関係構築」がなされるまで、京都五条大橋の格闘など
いろんなことがあって、お互いがお互いの「素の感情」に
向き合って、飲み込んだ結果がこういうことを可能にしたのだ。

 で、その様子を見た富樫は手下との信頼関係が構築できていなかった、
という事実に直面し、己の不徳を恥じる。
ああ、私は一人、というか孤独だったのか!!

 ・・・だから、あのラストなのですよ。

 見えない壁は多い、けれども、ぶち破るすべは己の中にある、か。

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