ゲキダン大河「海辺の伝説」

「差別」というものは放置すれば、全てを無くす。

 甘棠館でこの公演がある、と信じ込んでいた。
おまけに前の前の日に大分で九州演劇ミーティングがあり、
こっちは四国でハイ・パフォーマンス・マネジメントを学んだことと
どうすり合わせが効くか、ということでいく、とは考えたが、
ギリギリまで生き渋ってた。

 すり合わせをし、雑談をして、程々のところで珍しく、
そうだ、いつものわたしは終了間近までズルズルと参加して、
わけのわからんことになる、そこをこらえて電車のある時間帯で
すっ、さっと帰る。

 その妙なしんどさを抱えつつ、病院に行き、なんだかんだして
ハコにたどり着く、そしてドアがあくまで半分死んでいる。
半分死んでいると妙なところでぞろぞろと人がやってくる。

 ・・・おいおい、そこに並ぶのかよ?
恐ろしく疲弊した身体を引きずりつつ、列の後ろに並び、
ドアが開いて中に入り、位置に座り、ぼーっと始まるのを待つ。

 開演間もなくでもぞろぞろと人が前の方、前の方へとやってくるよ、
終いには開演すぐの状態でも数名目立つ入り方で。
こうなってしまうとますますアウェイ感が募ってどうしようもない。

 さらに、戯曲自体が博多女流作家特有の妙な気持ち悪さを帯びている。
そうだ、夏樹静子だって、高樹のぶ子も、さらには滝悦子もだ、
博多女流文学ってやつはどうも気持ちが悪くて、手にして、読んでも
ページの最後まで一回は読むが、「もう一回」へと踏み込めない。

 ・・・ああ、これだったら林真理子の「白蓮れんれん」を買っときゃよかった。

 そんなときに感じていた「正義の押しつけ」が持つしんどさ、
何とも言えない重苦しさ、というやつが昭和40年台、という
「アンシャンレジーム」と「ヌーベルレジーム」が同居している
時代と、空間のつくり。

 この白坂家という「アンシャンレジーム」が家長たる父が、
偶然の事故で死んで、お金のやりくりがままならなくなり、
いろんな「貸し」が増えて、返せなくなる。

 「金策」をめぐる攻防戦、「体裁」を整えるなんだかんだ。
そこに漂うは他者を見下す、わたしが見下される感。
お金がない、お金がある、ただそれだけで誠実でない振る舞いができる。
それはとても恐ろしい。

 見下した、見下された存在が、電話が止められ、ガスが止められ、
電気が止められて、お金をめぐるなんだかんだで差別の報いを受ける。
そうなると人間の本質がじわじわと見せられ、「アンシャンレジーム」の中に
閉じこもっていたら、いつの間にか世の中は「ヌーベルレジーム」だった。
そういう変化が絡みに絡んで、恐ろしくタフな演劇を見た。
・・・全てをなくして、どう生きんねん?

木ノ下歌舞伎「勧進帳」

"Brake the Line" 「見えない」壁をぶち破れ。

 わたしたちはわたしたちの内外(うちそと)に「境界線」というものを
わたし自身で引いたり、外にいる何者かによって引かされたり、
そういうふうにして、生きているんやね。

 こういうことを感じざるを得ない出来事の集合体の中で
もだえ苦しむことが最近多くなった。

 現に、フラットな世の中に境界線を引こうとして、
「境界線がある方が何かと楽だ」とうそぶく方々と
混ざって生きるのが非常にしんどい。

 更にいうと、じぶん自身で何か、フラットなところに境界線を引くと
一時は過干渉、と言うものが減って、すごく楽になる。
けれども、他者ももちろんのこと、異者も「境界線」というものを引いていて、
わたしの「境界線」と他者・異者の「境界線」というものが
真正面からぶつかるとものすごく大変なことになる。

 正直、しんどいねん。
こういうことを考えつつ、久しぶりに北九州で演劇を見るために
高速バスに乗り、芸術劇場へと向かう。
 
 そういえば、木ノ下歌舞伎は前作、「義経千本桜−渡海屋・大物浦−」を
見に、というか、少々ややこしいことになるが、まず、ラグビーのワールドカップ
前準備のため、勧進元たるワールド・ラグビーが恥ずかしいことにならないようにと
2016年シーズンから2シーズン、6月と11月に強い国と「優先的」に
対戦「させてあげる」試みの一回目、トヨタでの対スコットランド戦にいく、と決め、
その間に何を挟むか思案していたら、いろいろ気になっていた木ノ下歌舞伎が
その近くでやる、ということを掴んで、日程にくっつけた。

 んで、木ノ下歌舞伎もラグビーと同じく「木ノ下大歌舞伎」という
挑戦を始める、その流れで秋は北九州にやってきた。

 演劇以外のことは置いといて、小劇場の中に入ると、
・・・ものすごくギュッとした空間はさることながら、
空間自体の作り方に驚いた!!

 ざっくりいうと、高級アウトドアブランドのというかファッションブランド、
その来シーズン春夏モノの発表会、というショーが始まりそうな感じ。
目に見える色は白と黒しか存在していない。

 そういえば、飛ぶ劇場は 「機械が見れる夢が欲しい」という演目で
こういうような空間の使い方をしてはいたが、違うのは一点、
飛ぶ劇場は表演部の作りが「平舞台」、木ノ下歌舞伎は「尺高」と
「常足」の中間を取った「高さ」として作っていること。

 この「高さ」が物理的な「境界線」としてふたつの客席部を「分断」し、
「時代」というものでも「現在と過去」という「混ざりそうで、混ざらない」
心理的な「境界線」という意味で効いている。

 そして、バサバサと鳥が飛び立ち、鬱蒼たる森の中の空気を
空間の中に充満させて、本編が始まる。

 さて、この「勧進帳」という演目、
「勝てば官軍・負ければ賊軍」という世の習いとはいえ、
「手違い・間違い・勘違い」で賊軍になってしまって道の奥、
転じて陸奥、まあ、北の方に逃げようとする源義経、
そして弁慶と家来たちが「安宅の関」という「関所」、
現在で言えば「内国に存在する国境(くにさかい)検問所」の
責任者、富樫という公務員というか官僚と押し問答をする、それだけ。

 まあ、国境検問所にいる、担当の公務員、というか、
官僚というものはおしなべてマイルドなヤンキーというか、
スタイリッシュなヤクザ、カラーギャングなのかもしれない。
故にものすごくお行儀が悪く、源義経一行が山伏に変装している、という
情報を聞きつけると、山伏を見れば義経と思え、と言わんばかりに
富樫の手下は片っ端から山伏を惨殺してしまう。

 ・・・もう少し頭使って、生け捕りにして、と富樫はいうけれど、
何か、自身の栄誉栄達のために義経を利用している。
そう言う不穏な空気を醸し出している中に、義経一行、登場。

 この義経・弁慶の取り合わせが、実際にそうだったのかもしれない、
と思わせるような、弁慶の偉丈夫ぶりと義経の中性的な身のこなし。
というか、「女性」と「男性」という「境界線」がはっきりしたのは、いつのことだろう?

 そういうことに思いを寄せると、表演部ではいつの間にか、
義経・弁慶組対富樫の2対1変則タッグマッチが始まっているよ。
さらに、4人のセコンドが細かく、細かく、役割や立場を変えながら、
いろいろな色調を頭の中に表出させている。

 こうなっちゃうと弁慶の繰り出す術中、というか巧妙に組み立てられた
「策略」というものに富樫も、客席の見手もズルズルと引きずり込まれてしまう。

 まずは義経の特徴を書き出した手配書がでているのか、
でていないのかよくわからないが、この「曖昧なところ」を
突いて、義経を「強力」という、カタカナでおしゃれに言えば「シェルパ」、
身分的な「境界線」を飛び越えたやり方で変装させた。

 弁慶はもともと山伏の修行をしていて、作法も、勧進帳にも慣れている。
故に富樫との問答もいとも簡単に答え返し、その間、
身分の低い「振り」をしている義経は一言も喋っては「いけない」から
正体がバレることもない。

 そして山場の弁慶が主従関係を敢えて飛び越して義経を杖で打ち据えるところ、
この「情け容赦ない打ち据え方」、というところがこの演目の肝。
「主従関係を超越した信頼関係構築」が今、そこに成立している。

 この「関係構築」がなされるまで、京都五条大橋の格闘など
いろんなことがあって、お互いがお互いの「素の感情」に
向き合って、飲み込んだ結果がこういうことを可能にしたのだ。

 で、その様子を見た富樫は手下との信頼関係が構築できていなかった、
という事実に直面し、己の不徳を恥じる。
ああ、私は一人、というか孤独だったのか!!

 ・・・だから、あのラストなのですよ。

 見えない壁は多い、けれども、ぶち破るすべは己の中にある、か。

劇団Hall Brothes「中央区今泉」

「非凡」はいつしか「平凡」に化け、
気が付かないうちに「不平不満」へと化けてしまう。

 ああ、おさけのみたい。

 つい一週間前まで、四国善通寺のハイ・パフォーマンス・マネジメントの
トレーニングをやり、今回は外国からのコンテンポラリーダンスカンパニーと
なんだかんだする中で「閉じたクリエイション」と「開いたクリエイション」の
境界線と言うものを考えてしまう。

 ・・・おれらって、中途半端に開いていて、中途半端に閉じている。
ほんとうの意味で「苦しみ、あがいている部分」は「閉じた」感じでやらないと
その苦しんだ成果を診てもらうために「開いた」感じで、
その両方のメリハリをどうつけるか、そこが問題なんだな。

 さて、この演目、去年の初演時も行くことになっていた、というか、
広島方面にチラシのバラマキ屋稼業までして、
結局はメンタル絶不調を理由にして見に行かず、
いったいぜんたいどうするんだ?

 そういう状況も「やりたくないこと」をすっぱりやめて、
わたしにとって必要なことだけやるようにしたら少しだけ解決した。
・・・言うべきことは誤解を恐れず言い、なるべく議論はふっかけない。
もう少し「言葉で相手を殺す」ことができりゃ、もっといいのだが。

 そんなことを考えつつ、天神で用事を済ませ、東区の千早へ。
今回は「なみきスクエア」という、いままでかしいかえん近くにあった
ホールと図書館、あとなんだかんだを引越しさせて、改良した場所。
この塩梅だったら大橋ら近辺の数年後も(以下略。

 今回はホールであるかなぁと思いつつ、隣の大きい「練習場」で、
ということを知り、なんだかんだして中に入ってみると・・・・

 驚いた。
日本、というか福岡にこういうぎっちりとした空間のつくりが
できるなんて、そしてこんなことを思い出す。

 10何年か前、劇団四季が「サンセット大通り」というミュージカルの
日本語版をやりたい、どうしたら良いか、という話し合いの中で
空間のボリュームを4階建ての建物を4軒分、廻り盆に、という
オーダーがあって、そういうことができる場所とお金がない、ということで
劇団四季は諦めて、というお話を。

 てか、現実に存在する「中央区今泉」のいち断片を丁寧に切り取って
限られたスペースの上に「デザイン」として起こすと、
ものすごくエグい作りになる。
・・・これが10数年の「舞台芸術」における進歩と進化、なのかもしれない。

 3階建ての構造、一番低い地べたのところにバーと別棟でオフィス。
その上が蕎麦屋・・・と見せかけて割烹風の居酒屋、少し入り組んだところに
イケてるか、どうかわからない美容室、別棟にはアジア雑貨屋。
一番上にはおしゃれなのかどうかわからないカフェ。

 こういう場所で見せるお話は、
何者かになりたい、何者かになれるだろうか、何者かになれるかも、
そして、何者かになることを諦めた、という、いろんな、そしてたくさんの人間物語。

 なぜ、人は人の大勢いるところに多大なる「期待」を抱きたくなるのか?
この答えは「何者かになりたい」から、なる可能性を求めて人の大勢いるところに向かう。
更に乱暴な形でいうと「平凡」は退屈だから「非凡」になりたい、ただそれだけ。

 本当は、「生きている」だけで幸せなのに、幸せじゃない、と
欲張って、いろんなものやことを手に入れようとしている、
手に入れようとしてうまく行かなかったから諦めてそこそこで
満足しようとしている、あるいは落とし所を見つけて次に進もうとする。

 様々な物語が「恋愛」と「結婚」というものをアタッチメントとして使いながら
色んな方向に「繋いで」いく、この塩梅が物語に「血」を通わせ、
「生き物」へと変化させている。

 ・・・このカンパニーは一つ上の段にたどり着いた。

バカボンド座「かぶりはしたけど、はいてはいない」

「犯罪」とはなんぞや、
「更生」とはなんぞや、「人格」とはなんぞや、
そして「存在の否定」とはなんぞや?

 ・・・しくじった。
突然飛び込んだ用事をなんとかこなし、携帯電話の料金を払うまでは良かった。
けれども、その後、「予期せぬ機種変更」に巻き込まれ、時間を恐ろしく食ってしまう。
バタバタと新幹線の切符を買って、乗って、乗り換えて、少し遅刻して
イントロダクションの途中で物語に飛び込んでしまう。
やっちゃいけないのに、やってもうた。

 なんというか、枝光に大阪西成の持つ、通りの何処かしこに
ションベンの匂いが漂い、スーパー西成の外気に食品を触れすぎたり、
ありえへんところにありえない商品配置をするものだから
気持ち悪くて食べられたものじゃない、唯一、あいりんの職業センターにある
売店の毎朝工場からできたてを持ってくるヤマサキパンが(以下略。
そんな空気が再現されている。

 その空気の中でやっていることはマジで変態、変態に磨きがかかっている。
「ボーイズラブ」というか、一昔前の「薔薇族」とか「さぶ」に代表される
アングラ臭漂う「男子同性愛」にJ-メンズ東京がどこからか混ざったり、
SMという性行為、それも極めて「エグい」プレイを想起させるなんだかんだ。

 この「変態具合」を飛ぶ劇男子幹部衆が怖ろしいくらいの集中力で、
しかも楽しみながら、真面目に「変態」をやりきっている。

 その空気に引っ張られるかのようにじじとモンブラン高山の両女子は
「変態」を狂気で受け止め、なんというかカオスというものがぐるぐるして
このぐるぐるに気がつけば、巻き込まれている。

 がだ、言いたいことはものすごく重い。 
「前科」を持っている、ということはこの社会にとって最高のハンディキャップ。
その重すぎるハンデを抱えた人々を、それも「ある事情」でどの場所からも
「受け入れられなかった」存在を受け入れて、なんとかしようとする
「篤志家」とその周辺、ということがお話の肝。

 ・・・なぜ、社会から弾かれたのか?
もしかしたらその存在は「重度の知的障害」あるいは
「重度の知的・精神障害」を抱えていて、それを何とかすることが
出来ずに放置され、それでも生きていかなくてはいけない、でもままならない。
そのままならなさが、犯罪、というものにつながり、気がつけばズルズルと
人生のどん詰まりにまで来てしまった。

 ここに犯罪被害者の「真実を知りたい気持ち」と「復讐心」までが
絡みに絡み、さらには「救助(援助)ハラスメント行為」が
隠し味に加えると正直、エグいっす。

 何にもできず、放置されて、何にもできずままならない人生を
生きる、ということは色んな意味で辛いよな。
その辛さを真正面から立ち向かうと、冤罪背負い込まされたり、
「生き方」を親類から否定されたり、苦しいことだらけ。

 その反対で真正面から立ち向かわず、楽な方へ楽な方へ逃げ、
周りをひどい状況に巻き込んで、他人に罪をおっかぶせる。
けれども、その因果が回り回って悲惨な最後。

 あの最後のセリフが恐ろしく心に引っかかる。

劇団ZIG,ZAG,BITE「傷は浅いぞ」

「完璧たる人間=無茶振りが効く人間」ということ。

じわじわとおもいだした。
・・・そういえば、この演目、どこの誰かがやったかわからないが
見たことがある、そういうことを。

柿喰う客、というカンパニー自体はぽんプラザに始めてきた時
見に行って、おんなじ演目を愛知長久手の「カラフル」で見て、
最近読む機会がなくなったが「エル・ゴラッソ」という
ピンク色のサッカー新聞を効果的に使っているなと。

で、サッカーつながり、という流れで「露出狂」を見て、
れおさんの一人芝居、女体シェイクスピアをまた長久手、
「柿喰う客フェス」もラグビー第2テストマッチが味の素で
あるタイミングだったから行けるかも、と踏んでいたが、
15000円を用意するタイミングが悪く、どうにもならなかった。

こうしてみると「傷は浅いぞ」を柿喰う客、というカンパニーで
見た、ということはなさそうだ。

そういうことはさておいて、ざかざか雨の降る中を
辿り着いた先の空間はシンプル、シンプル、さらにシンプル。
パンチカーペットも何も敷いていない、素の木がむき出しになっている
平台を使って「高さ」というものを使っている。

もう少し「黒」というものを強調できれば大阪精華小劇場を
思い出させる奥の深い空気、というものができたのだが。

前説があり、音が徐々に大きくなって、ドカンと明るくなれば、
柿喰う客の初期作、その初演時よりも世の中が尖っている、
と言わんばかりの生々しさが板の上にぶちまけられる。

お話の背骨は「進め!電波少年」という
「生き残りをかけた芸能人に無茶振りを仕掛けて、
その反応を不特定多数の人間に晒す」という番組を
「生き残りをかけたアイドルという存在」に特化したものの裏側。

「無茶振り」というものは「無茶」のさじ加減が重要で、
振る側も、振られる側もこの「さじ加減」を間違えるとえらいことになる。
がだ、何らかの事情で加減をする「匙」自体を壊されたら、どうなる?

「無茶振り」というものが静かにエスカレートして洒落にならなくなる。
そのさまを見ながら、パラリンピックのことや神奈川で起こった
例の事件を考えてしまう。

人間、という生き物は「自分じゃ出来ない、できそうもないこと」を
いとも簡単にできる、要するに「無茶振りの効く」存在になりたくて、
なりたくて、たまらないのだ。

「無茶振りの効く」人間が世界中から4年に一度集まってくるのが
オリンピックであり、さらに磨きがかかっているのがパラリンピックに
集ってくる、そういうことをこの間やっと理解した。

けれども理想と現実の落差、と言うものを感じると、
その衝撃波は半端ない。
更に言えば、知らない誰かに「人として生きる」ということを
残酷な形で毀損されたが故の衝撃だったらどうなる?

踏みにじられ、毀損した人間を殺したい、てか殺しちゃう。
がだ、それは正当防衛ではなく、過剰防衛として・・・。

こういう猛々しさ、開き直り、切なさ、悲しさ、色んな感情を
歌舞伎の要素をうまく入れて見せていたのか!!
そんなことを感じて、家路につく。

プロフィール

itumo25254you

Author:itumo25254you
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