雨傘屋「すなあそび」

本当の「コメディ」とは、笑いの中に
ほんの少しだけ「毒と哀しみ」がまざっている。


 まあ、人生もおんなじやね、うん。
そういうことを感じることができるから、こちらが逆に
「ありがとうございます」と思わず言ってしまうわけで。

 自分が「対人的」なところで「めんどくさい」ところが多々あり、
この「弱点」を頭のいい人、というか少々意地汚い人に
突っつかれた時はさすがにしんどい。

 けれども、この「めんどくさい」ところを「嫌いではない」と
わかってくれている人もいる、それもありがたい。

 そういうことを考えながらハコの中に入ると、表演部には
砂、砂、砂だらけ、客動線はきちんとビニールで養生しているけれど、
それがわからないくらい灯りを極端なくらい落としているから
客席部に辿り着くまでが非常に難儀する。

 がだ、客席にたどり着いて、座って、表演部のどまんなかにある
「砂山」を見てしまうと、わけもなくわくわくするのはなぜだろう?

 もしかしたら、この「砂山」には人が埋まっているかもしれないし、
人が埋まっていないにしても山の真ん中にでっかい棒を
一本おっ立ててここにいるみんなで大砂山崩し大会やりたいな、
なんて「妄想」をしていたらいつの間にか前説が始まり、本編が始まる。

 ある砂浜である夫婦が何かを掘ろうと準備をしている。
夫は何かを掘る前に海にまつわる歌を歌わないと調子が狂うらしい。
けれども、ある部分からの歌詞がなかなか思い出せない。
というわけでまた最初から歌いはじめるけれど、同じ所で引っかかる。

 妻はその様子を見て、呆れながらもお昼ごはんの準備をする。
けれども妻は妻でサンドイッチと紅茶は持ってきたけれど、
肝心のゆで卵と角砂糖を忘れてきてしまった。

 忘れてしまった、という事実に気がつくタイミングで
若い夫婦ふたりがいいタイミングで「ゆで卵」と「角砂糖」を
何故か知らないが、売りにやってきたではないか!!

 がだ、それを必要としていない状態になってしまったから
もういらないよ、いやいや、買ってくれないと帰ることができないんだよ、
という押し問答が繰り返されて、さあ掘るぞ、というけれど一体何を掘る?
という押し問答がまた始まって、なかなか本題の「掘る」という行動に
たどり着かない。

 押し問答が繰り返されている間にも、「救世主」というものを探しに
牧師らしき存在がツルハシ持って砂山にやってくるわ、
更には医者とその婚約者らしき看護婦がやってきて、
「まい・すいーともうちょう」はどこ?てな具合の勢いで砂山にやってくる。

 そうして三者三様、それぞれのやり方で「砂山」を掘り始める。
けれども、ほっても、ほっても何も出てこない。
出てこないところに何かが「おわり」を告げる合図とともに、
「リアルな」看護婦さん、しかも3人やってきた瞬間に、
今まで掘っていた人々は生を失い、その周りを看護婦たちは
ぐるぐる回りながら熊本語で何かを話している。

 そうすると、場の空気は「夏の海」から「秋の海」へと
一瞬にして変化する、その様子が「人生の終わり」と重なって
さらには「松原遠く」で始まる歌と「佐渡の砂山」という歌の持つ
「空気感」の対比が恐ろしいくらいに見手に伝わってくる。

 そうだとすれば、いま、板の上で起きている状況は
「現実」なのか、それとも、あの「考古学者になれなかった」男の
頭のなか、しかも、もうすぐこの世からさようならする寸前で見る
ひとつの「妄想」だったのか、色々と判断しかねない。

 この世からさようならするときに見る「妄想」だとすれば
あの医者は主治医だったのか、水着の若い夫婦は息子か、
それとも娘夫婦だったのか、そして牧師は・・・。

 見れば見るほど、考えれば考えるほど、思えば思うほど
用意周到に仕掛けられた砂の落とし穴に嵌まり、気が付くと
物語から這い上がってうまく現実に戻れない。

 こういう状況に嵌ってしまうと、正直、何が「幸せ」なのか
訳がわからなくなり、わからない状況でほんの少しの毒を
飲んでしまうと「幸せ」という存在自体があるのか、ないのか、
さえもわからなくなってしまう。

公益社団法人日本劇団協議会 「義務ナジウム」

わたしたちは、「偏った価値観」の元で生きている。

 最近、演劇を見に行っていない、というか、見に行くことができない。
「芸工大プロジェクト」で「道真」という「作品」を作ることで
久しぶりに「演劇」というものをガッツリやっている、とも言うが。

 体と頭を動かして、わたしの考える「戦略」と芸工大サイドのそれと
すり合わせ、数多くの段取りをしてこの「義務ナジウム」と
もう一つ鹿児島である「天国の楽屋リーディング」に行って
見学がてら色々動くことになった。

 それはさておき、本当にえらく凝っている表演空間だ。
「巨大な樹」が「石段」に「寄り添う」ように「存在」している。
さらに言えば、「何か」に寄り添うように「お社様」までもが
「存在」している。

 その近くには「人々の生活空間」として文机、棚、そして電話、
かばん、ヘルメット、懐中電灯、そしてその他もろもろ。

 今回公演の趣向は、河野ミチユキという「熊本の戯曲書き」が
書いた戯曲を自ら持っているゼロソーという劇団「単独」で、
「自ら演出」して「自ら、もしくは、所属している役者たち」に
よって「公演」を作り上げて行くのではなく、東京から
古城十忍という「恐ろしい演出理論」を持った実力者と
彼が引っ張ってきた手練の役者に熊本で厳しい選考を
くぐり抜けた役者たち、という座組によって、
「公演」を作り上げる趣。

 この戯曲の「肝」は「働き終えて」というか「戦い終えて」日が暮れて、
という空気、「労働の尊さ」という「精神」が全編を貫き、流れていて、
この流れに乗せて「プロスポーツ」と「セックス」と言うものから
「地方」というものが抱えている「疲弊感と可能性」をまとめて見せること。

 さて、本編に入ろう。
「労働の匂い」を強く感じることができる「音楽」といえば
「ブルース」だよな、けれども、「労働の匂い」というものが
徐々に希薄化されている現代において「ブルース」という音楽は
どう変容していったのだろうか、ということを考えながら。

 コンビニエンスストア「すら」ない、ある意味、時代、というか
現代から取り残された山村が「スカッシュ」という「プロスポーツ」と
「トンネル」という「アイテム」で「取り残された」状態を打破し、
「外部」である「時代と現代」とつながっていきたい、という希望はある。

 けれども、男は「外」へ出稼ぎ、女は「内」で家を守る、
といういつできたかわからない、事実、「美女村」というように
ある時期までは「選ばれた」女が外で出稼ぎ、あと、残されたものが
「内」で家を守る、というようになっていた。

 そういう「風習」が「山」のお陰で未だに残っていて、
さらには、「男女差別」というか「男女区別」というものに加えて
「この土地で生まれ育った存在」と「この土地以外で生まれ育った存在」
という「差別」、もしくは「区別」に対して風習を知らない
「この土地以外で生まれ育った」、そして「女性」という二重の意味での
「異者」は折にふれて問いかける。

「なぜ、そうするの?」
「なぜ、そうしたらいけないの?」

 その「問いかけ」に重なり、響くようにこのムラにある
もう一つの風習、である「御籠り」という15歳になった
少年少女たちが厄年で年上の「異性」と「性交」して、
「処女」や「童貞」を敢えて「捨てさせる」行為の準備、
参加する、しない、その他いろいろなことにまつわる葛藤が
スカッシュで繰り広げられるラリーのように重く、早く、
見手の心に入ってくる。

 「外」の常識では「童貞」や「処女」というものは「貞操」として
「神聖なもの」というか「はれもの」に触るように取り扱っていて、
こういう風に「敢えて」捨てさせる事を見てしまえば、
人によっては「狂い」というものを感じてしまうことがある。

 けれども、この「狂い」を「狂い」と言ってしまえば
「外」の常識は「内」の人々が脈々と「生きてきた」生活や
歴史、そのものを「否定」してしまうかもしれない。

 もし、「否定しない」ようにするためにはどのような形で
「生きてきた」生活や歴史を「尊重」しなければいけない?

 みちゆきさんver.は「尊重」するにおいて「それ以外の部分」を
よりきちんと「書き込んで」いて、それはそれでいいけれど、
どうも、まだるっこしいところが多々見られた。

 これに対して、今回公演は「それ以外の部分」はきちんと
「シェイプ」されていて、「異なるものやこと」に対する
「寛如の念」というところに「特化」している。

 故に、人はみな、それぞれの「生」を全うするために
「お互いを尊重する」という「矛盾」と葛藤していることが
きちんと表現されていて、見えている。

 矛盾と葛藤しているからよそ者はあまり「閉ざされた」ところへは
行こうとしない、と言うかできないのかもしれない。
「閉ざされた」ところに「いく」ということはなにかしらの存在に
「呼ばれた」のか、あるいは「血」もしくは「縁」に呼ばれないと
そうそう行くことができない。

 そうして「呼ばれた」存在である「異者」がその場所にとっての
「他者」となるための「儀式」として「御籠り」という物がある。

  こういうふうに捉えたら矛盾や葛藤は「生きる」ということにおいて
「悪いこと」なのか?それとも「格好わるいこと」なのか?
更に突き詰めれば「生きる」ということ、「ものを作る」ということは
各々の場所に「寄り添う」ことでしかなし得ることができない、としか
考えることができなくなってくる。

 もっと突き詰めたら「生きる」ことや「ものを作る」ということは
「限られた状況」の中において「何かを変えていく」作業であり、
この「限られた状況」とはわたしたちが予め「背負っている」
何らかの「運命」や「宿命」、これらが形作っている「考え方」や
「生き方」、総合してそれぞれが持つ「人生の主題」なのだろう。

 これらのことを一度「棚卸し」する必要はあるが、
この作業は打っても打っても次々に「跳ね返って」来るので
非常にしんどく、手間がかかり、骨が折れる。

 けれども、そうすることで「変化しなくていい」本質と
「変化しなければならない」本質が徐々に腑分けされ、
「変化しなければならない」本質が少しずつ、少しずつ
「変化」していくものだ。

 このような「変化」を手に入れるためには
「手を抜かず、本気で取り組む」必要と、そうするための準備、
そうしたあとの十分なケアが必要なのかもしれない。

劇団どくんご 「OUF!」

「野試合」の流儀。

 「ダム」終演のち、交流会、というもので軽く茶を飲んで
雑談しながら様子をうかがうと、どうやら前もって手配した
帰りの新幹線ではうまくいかない、ということがはっきりわかり、
まずは熊本駅に戻って最終のつばめに変更をかけると
すんなりと通り、下手に焦ることなく河川敷へと向かう。

 開演どころか、開場にも早過ぎる時間だが、
熊本駅近辺は時間潰す場所が少なすぎる、というか
下手に動くと開演に間に合わなくなる。

 故に、公演の準備をしている近くでいろんなことを咀嚼し、
つとつとと考えていけばいくほど、なんかようわからんが、
悲しくなるわ悔しくなるわ、でまたやりきれない気持ちになる。
・・・ああ、風呂屋やらネカフェやら長逗留出来る場所が
熊本駅前にあれば、なんとかなるだろうに。

 それにしても、最近世の中すべてがリアルで
「お笑い」やらかすものだからいろいろな意味で洒落にならんし、
本当に何でもありすぎて、生きていくことさえ大変だ。

 そういうことを考えていたら窓口が開いて、木戸銭払って
中に入ると、本当にわたしが小さかった頃、大阪石切神社だったのか、
生駒山の参道だったのか、夜のお参りに行って、その帰りに
引き込まれるように入っていった見世物小屋の空気によく似ている。

 がだ、見世物小屋よりも「安上がり」にできているし、
「安上がり」にできているからこそより「濃い」空間で、
しかも集う人々もものすごく「濃い」、そしてわたしは
小さい頃、たった一人で中に入っていったが、
親と一緒にこういう「濃い」場所にいること自体、なんか凄い。

 がだ、ざわざわざわと人が入る、おまけに最前に席作られると
・・・まあいいや、本編に入ろう。

 初手から掴まれましたわ。
暗くなって、どっかーんと「目出鯛」の幕が開くと
熊本ニュースカイホテルの高層ビルやらその他もろもろの
「街の景色」というものを「借景」にして「異次元」ともう一つの
「異次元」を「接続」する物語をおっ始める。

 そこには人間も、宇宙人も、男性も女性も、そしてありとあらゆるものが
混ざりに混ざって、ものすごくぶっ飛んだ、それでいて懐かしい物語。
・・・そういえば土曜日の夕方、「料理天国」というサントリー提供の
番組があって、そこでかかっていたコマーシャルにこういう世界が
表現されていて、そこでわたしはアントニオ・ガウディやら
アルチュール・ランボー、という名前を知ることができた。

 そういうことを思い出し、空間が持つ不思議な響きを
夜の河川敷、テント小屋、そして秋の入口の温かいと寒いの
変に混ざったところで感じてしまうとあの土曜日の夕方に感じた
「切なさ」というものを再び思い出してしまう。
 
 物語の中身はパウル・ツェランやアルチュール・ランボーの
「散文詩」のリズムやマルセル・プルースト「失われた時を求めて」の
文学的空気がこれでもか、と満ちている。
ここに第七インターチェンジの「芥川龍之介ワールド」が絡み、
なんていうか、和洋の「えげつない文学」というものを
あの空間と身体言語に落とし込むとこんな具合に深くなるのか。

 さらにはちょうどいい塩梅で「雨」が降るし、これが「野試合」の
凄味なんだよな、何年もこういう形で積み重ねてきた「強さ」と
いうものを目の当たりにすると、理屈はどうでもいい、
身体ですべてを感じるしかない。

メメントC+ゼロソー「ダム」

もしかしたら、人間は自然に「危害」を加えて生きていたのかもしれない。

 わたしたちは、私達の心のなかに多かれ少なかれ、
「不満」というものを飼っていて、この不満を自らより「弱い」存在に
ありとあらゆる形でぶつけて「解消」しようとしている。
故に、自然も人間に「危害」を加えて生きているのかもしれない。

 これが「ハラスメント」という行為。
そして「行為者」を「ハラッサー」と呼ぶのだ。
さらに言えば、この「ハラッサー」が自らの「やっていること」を
意識せず、「ハラスメント」という「行為」を繰り返すと、時と場合によって
「エゴイスト」や「レイパー」、「サディスト」、裏返して「マゾヒスト」、
さらには「ロリコン」、「ペドフィリア」と様々な「トラブル」の元になる。

 ・・・アダルトビデオのありとあらゆる「プレイ」の元ネタは
ハラスメントやハラッサーから来ていたのか、という発見。

 てか、人間の業、というか、原罪そのものが
「アダルトビデオ」に凝縮されている。
この事実にわたしは戦慄した、そして頻繁に抜くことができなくなった。

 そういうことを「特」に「急」がない「新幹線」で熊本に向かいながら
ふと反芻してしまう、さらに木曜日の日本シリーズ第5戦、
阪神西岡の「守備妨害」が「相手殺してでも勝て」ができなかった時の
ものすごい「哀れさ」とか「みっともなさ」につながってなんとも言えず、
「結果はあくまでも結果」として受け止めるには常に何かを
「背負う」ことをやめないと、受け止めることすらできないのか。

 そんなことを考えると特に急がなくてもあっという間に
熊本に着き、どくんごのテント劇場を確認しながら、
早川倉庫までまったりと歩く。

 この「倉庫」は「時代」という空気を背負ってこの場所に佇んでいる。
130年というものすごく重い空気を感じながら中に入ると、
「球磨地方」に昔からあるお家の「座敷」の持つ「何か」が
きっちり「生きている」表演空間がそこに、存在している。

 自分は「菊池、山鹿地方」のこういう「空気感」の中を
福岡からわざわざママチャリを「輪行」して朝早くから
夕方、日が沈むまでグルグル回ってチラシを撒く仕事をしていた。
その仕事を離れるきっかけになる出来事をつらつら考えるともう本編。

 最近、「リーディング」という座って台本を持って
読んで、というスタイルにある程度の動きが加わるように
なった、「ドラマチック・リーディング」という形で今回はやるらしい。

 そういえば、DRINKからGKKにつながって、戯曲、というものは
それ自体声に出して、読めば読むほど心と体が動くように
できている、ということにうっかり気がついた。

 その流れで「ダム工事」をめぐる様々な出来事を
多方面の視点で眺めてみると、人間ってそうとうえげつない。
というか、今いるところがあまりにもえげつないから、
生きていくためによりえげつなくなった、ともいう。
そういうことを長い間、世代を超えて繰り返していくと
いつの間にか「原点」という名の「根」が張って、
初めて「場所に馴染む」といった次第。

 なぜ、「ダム」というものが必要になったのか?
「原点」という名の「根」が張る前に「喪った」人や物、
そしてことがあまりにも多すぎたから。
この多すぎた「哀しみ」や「苦しみ」を堰き止めて置くために
作らざるを得なかった「装置」だったのかもしれない。

 この「喪った」人や物、そしてことによって、「残った」人やことは
「あるべき」ところから大きく移動して、あるものは「残った」ものに
しがみつき、またあるものは「根無し草」の人生を選び、「欲」という
「悪魔」に身も心も「売った」ものも、当然ながら存在する。
 
 その三者三様の思惑や駆け引き、というものが
「ダム工事」をめぐるやりとりで明らかになればなるほど、
わたしたち「人類」はある「繋がり」から切り「棄て」られた
いわゆる「棄民」だったのだ、そういう事実、というか、
現実を突き付けられると、何も言えなくなる。

 本当は「自然」というところに「居場所」と「役割」があるから
その場所「に」、というかその場所「で」生きることができる。
けれどもその場所で生きていない人間が「居場所」と「役割」を
壊して、「自分勝手」に変化しようとしている。

 誰かの犠牲によってしか何も変わることはできない、
というけれど、誰も犠牲を引き受けようとしない、
犠牲を誰も引き受けようとしなければ、人間も、自然も
それぞれが持つ「汚さ」や「醜さ」を露わにしていく。

 「汚さ」や「醜さ」が露わになればなるほど「正論」というものは
本来の意味を亡くし、拾える金を全て拾おうとして「天災」という形で
「強姦」された自然に「人災」という形で復讐し始め、
その手で「弱き者」に対して経済的、社会的な形で
これまた「危害」を加えている。
・・・「愛している」という「偽り」に隠され、何も見えないが。

 しかし、「堰き止め続けて」いた「汚さ」や「醜さ」、
そして、「こうありたい」という思いは何時かは決壊する。
決壊して、淀んでいたものが流れた後、皆は静かに「笑って」居る。
・・・何もなかったかのように。

 こう「水に流して」しまうと良いも悪いも曖昧なものになるし、
本質的なものについても訳がわからなくなる。
・・・すべてを受け入れる「痛み」とはこういうものなのか。

早川倉庫杯 くまもと若手演劇バトル DENGEKI

「ストラテラカプセル」の使い方。

 どうやら、「演劇」というものの「伝え方」、「見せ方」というものに
ある意味「戦略性」というものが必要になってきたのかもしれない。

 というか、熊本行きの荷物を作った時、飲まなきゃいけない
薬のセットを忘れて、昼の部は何とかなって、宿に入り、風呂に入って
落ち着いて、夜の部、時間間違えたかな、というやりとりを
古田さんとしていたら、突如「ストラテラ」という言葉が頭を。

 おまけに満席で、不安な状態を拭うため「息吹」を
やって落ち着かせようとするが、息が途切れている。
何とか乗り切ったが、不安が止まらない。
現実、疲労が脳みそ、前頭葉からダイレクトに心臓へ、
姿勢を変えて寝てみると疲労が奥歯から前歯へ移る。

 どうもならないから長崎直行の予定を切り替えて
朝早いバスで福岡に帰り、薬のセットを飲んで、安堵する。


 一通りすべてのプログラムを見たが、
翌日の本戦には「残るべきところ」が残った。
その差は「形」の有る無しと安定した「質」の提供、
ただそれだけ。
この事を踏まえながら、話をしていこうと思う。

【予選Aブロック】

熊本高校演劇部

 こうして見てみると、「演劇」というものは「演者」という
「楽器」の響かせ合いで作られていくのだな、というところを
メトロノームを使い、ひとつの戯曲の複数場面を演者毎に
バラバラと読ませている、メトロノームのかなり早いリズムに合わせて。

 この様子、稽古が始まる前、もしくは本番、というかゲネプロが
始まる前の心と体、そして喉を温めて「私という楽器」を
チューニングして、いつでも板の上に出る準備だよ。
こうしなければ、さあ、そこでなにかやれ、と言っても
十分に声は出ないし、身体も動かない、当然心も。

 きちんとチューニングできたところで
今度はメトロノームのリズムを「演目そのもの」のリズムに下げて
「仲直り」というミッションをするが結局は事故で死んじゃった。
というお話をぶちかます格好。

 見せ方はすごく斬新なんだけれど、メトロノームの入れ方、
リズムの変え方、止め方が雑なせいか、
流れを「殺して」いる傾向がある。

 更にいただけなかったのが一番最後の「謝罪」という名の
「言い訳」をしてしまったこと。

 要するにDENGEKIに相応しくない戯曲を出した、
けれども納得いかない、チェルフィッチュの岡田さんも
評価して云々と、うーん、なんだかんだと、言い過ぎだ。
・・・だったら、九州戯曲賞という「評価の場」があるから、
それに出せ、出して知らない人から「評価」してもらえ。

RIKKA

 「アイドル甲子園」ですか。
その企画、もう「スカパー!」が半年、というか
一年かけての「企画番組」としてやっているんだよなぁ。
47都道府県から1ユニットずつ「参加料1万円」で甲子園方式の
トーナメントを戦い、買ったほうが参加料総取りして
次の段階に進む、故に優勝賞金は47万円、それに舞台衣装の新調が
おまけとして付いてくる、審査の仕方はよくわからんが。

 で、このお話の優勝商品がスマホのケースに「鼠の国」での
カウントダウンライブの一枠、だとしたら参加料は10万円、
それとも100万円なのか、と下衆いことを考えてしまう。

 熊本のダンススクールできららのみきてぃが一枚噛んでいるところだ、
ということは「身体言語」の使い方やら物語の持っていきかたから
よくわかる、自分の「居場所」と「立ち位置」を見つけるため
苦悩呻吟して「新しい」「自分」の「居場所」と「立ち位置」を
見つけた、そして遠回りも悪くないよね。

 構造はちゃんと「行って帰って」ができていて、
ダンスもそれなりにキレキレ、しかしバランスが良くない。
「からだ」と「こころ」がうそをついているとセリフが聞きにくい、
否、セリフが聞き苦しくなる、それだけでしんどいのに、
「ロリ趣味」が好きじゃない自分にとっては見ていてすごく苦しかった。

演劇ユニット永久磁石

 また、改めて「ゲド戦記」全巻セットを読みたくなってきた。
というか、「世界」はこういうふうに「終わっていく」のだろう。
構造はF's Companyの「ロン通り13番地」のスピンオフ、
「ロン」という「人体」をベースにした「人工人間」が何らかの形で
無人島に「存在」している。

 さらに言えば、究極の性能を持った人工人体は
「男性性」と「女性性」というものの並立、両存を
可能とするのかもしれない。
おまけにいろいろな意味で「遠く」まで見渡せる。

 故に、何らかの事情で忌み、嫌われ、ここまで流された。

 ある日、醜い生き物が流れ着き、この人体に恋をした。
というか、この醜い生き物も「人工人体」のなりそこない。
このふたつの「醜悪なれど、悲しきいきもの」たちが
「男性性」とは、「女性性」とは、「人間性」とは、というものを
考えるように仕向けられ、結局、「国家」というものが
あらゆる「性」を「規定」している、この窮屈さを皮肉っている。

 この窮屈さがひどくなったから、どこかへ行って、死んで、
その結果「国家」というものが破壊され、分解したんだよな。

 がだ、ある年代、世代には刺激が強いお話だ。
この回のお客さんはほとんどが2番目のアイドル甲子園の
関係者、子供と、その親御さんで性や社会システムに関して、
ある意味保守的だ。
そういうところに関する「嫌悪感」があったのかな。

 「ある棋士の肖像」を持ってきたほうが・・・うーん、どうだろう?

DO GANG

 取り合わせが人間と「ネコ」という名の「犬」、
そして「人間ビートボックス」という形で「掴み」はオッケー。
更には男の名前が「偽男」と書いて「ブラフマン」と読ませる。

 ・・・流石、徳富蘆花、徳富蘇峰の血を引くなんとやらだ。
所謂「自宅警備員」を拗らせてパソコンのスキルは知らない間に
身につけてはいたが、「世の中」に出るのが怖いので、
この培った技術をどう活かしていいかわからない。
おまけにこのへんてこりんな「名前」のせいで余計に苦しい。
だから、とにかく死にたい、死なせてくれ。

 それを受ける「ネコ」という名の「犬」もなんか説教臭い。
もしかしたら、これが「ハラッサー」と呼ばれる
「善意をまとった悪意」というものかもしれない。
この善意と悪意が入り混じった感情で他者の人生を云々されると
私の心は「バカヤロー」と言いたくなる。

 生きとしいけるものにはそれぞれ「目的」があって、
この「目的」に息をするように取り組んでいるものだ。
それを「努力」とか「才能」だとか「苦労」という言葉を
「介入」させてしまうから人生が余計ややこしくなる。

 この「ややこしさ」を見続けてしまうと、なんだか腹立たしくなる。
まずは外に出て、生の人間にぶつかれ、繋がれ。
・・・話はそれからだ。



劇団ヒロシ軍

 こういうお話は、男にとって心が痛いのです。
インターミッションの時、心と体を温めているところから
「演劇」というものをおっぱじめているよ。

 「演劇」を諦めた男と「演劇」にしがみついている女のお話。
このふたりが交わる場所がある小さなTV局のTVショッピング
番組の制作現場。

 こう来ると、宍戸錠の自伝「シシド-実録日活撮影所」を
彷彿とさせるお話の作りだ。
どんな世界、どんな仕事でも「立ち位置」や「居場所」の数には
限りがある、この限りある場所を力ずくで取りに行かなければ
どうにもならない、そのためには「戦略」も必要になる。

 そうなると、生きる、とは相当過酷なのかもしれない。
向いている、向いていない、と自分で判断するよりも
「仕方なく」やらなければいけないことでも懸命にやるしかない。

 その懸命にやった結果があの「すれ違い」だった。
さらには女はあの場面で最後の最後に「女優」を見せた。
なんかくやしくて、切ないわ。


【予選Bブロック】

熊本大学演劇部

 「味噌汁のお椀」という小宇宙ですか。
ここに「外国人」、「男子同性愛」という「見えない差別」と
「一味違う三角関係」というものをぶち込んだ、という趣。

 ふつう、冷たい味噌汁を「意図的」に作ることが出来るか?
できるとすれば生まれてこの方母親の料理の手伝いをせず、
家庭科の授業も受けず、ひたすら受験勉強して「他人」が
作った「ご飯」しか食べたことのない人なのだろう。

 そういう「世間」というものを全く知らない人間が
地球滅亡の危機に際し、冷たい味噌汁椀が「ノアの箱舟」となって
彼らを救ったものの、「三角関係」のバランスを保つため
前にも後ろにも進めない。

 このカオス感をギターとカホンを使って、「ABCヤングリクエスト」とか
「MBSヤングタウン」、「ヤングおーおー」を彷彿とさせるリズムで
表現はできているが、「第七インターチェンジ」がよく使う
「フリップ芸」はこの狭い空間には合わない。

 まあ、「一度壊れなければ」わたしたちは「新しくならない」という
「宇宙の真理」にまで行き着いたことは良しとしよう。

劇団鳴かず飛ばず

 初めて「アウェイ」でたたかう「緊張感」なのだろうか、
なんか心と体がカチカチになっている。
おまけに「時間」というものをうまく「コントロール」できているのか
できていないのか、正直分からない状態で板の上に入る。

 ・・・打ち合わせの段階で「この音の後に演技面入って設営ですよ」と
言われてはいるのだろうが、その「段取り」をすっ飛ばそうとして
我に返る状況があった。

 けれども、全てが暗くなり、「自分たち」の光と音が掛かれば
「遊びごころ」が満載のエンターテイメントをガチでぶちかましやがる。
福岡にかつてあった「ぎゃ。」という女の子だらけのエンターテイメントを
ガチでやるところは時折ファンタジーやらメルヘンを混ぜるけれど、
鳴かず飛ばずは「お客様を楽しませる」という点でガチを仕掛けてきた。

 まあ、江戸時代、徳川、というシステムによって
「目出度い熊本、哀れな鹿児島」という扱いを受けていた。
それくらいえげつない「差別」というものの陰を鹿児島は持っていて、
年に一度の「鹿児島演劇見本市」の中でもこういった「差別」を
極めてソフトに扱った演目がよく見られるのです。

 この文脈で「俺達は哀れなんかじゃない」と差別を逆手に取り、
・・・鹿児島が泣くから「鹿鳴館」だと?今度は俺達が熊本を
キャンと泣かせてやるわ、と言わんばかりに時空を自在に
行ったり来たり、弄り弄られ、反発心と反骨心の圧も凄い。

さらには、宮崎メディキットの搬入口近くにある銅像の人、
「川越進」にまつわる「宮崎県、鹿児島県から分離、独立を果たす」話
まで持ってくるものだから、正直ぶっ飛んだ。

 名刺代わりの強烈さは残した。
がだ、熊本のこういう「因縁」を知らない人はマジで引く内容。
私はここに戦慄してしまった。


with a clink

 これを見て、わたしはきたむらあかねという人間が
いけだみきの「演出助手」として重用されている、という事実を納得した。
多方面で彼女の仕事ぶりを聞く機会があるが、「音」と「身体言語」、
そして「立体空間」の把握とイメージの保持能力が秀でていて、
付いた名前が「人間USB」とのこと。

 自分も、これから演劇スカウティングの合間に「演出助手」の
仕事をする機会があるのだろう、がだ、そうできるのかとても不安だ。

 そういう人間USBが「演劇作品」を作ったら、あまりにも圧倒的すぎる。
「音」と「身体言語」、「立体空間」に対する
「心地良い」と「心地良くない」の「基準」に全くもって「ブレ」がない。

 もし、山下久美子が中島みゆきの「夜会」とおんなじことをするならば、
こんな風にやるのかな、というくらい音と詩がしっかりしている。

 さらには、音と詩に対して皆のからだが素直に動き、
おまけにrockな隠し味が効いている。

 「ブレ」がないから「本」を巡る冒険、「欠けている」と「満ちている」、
「未知と既知」、という「言葉の海」をこれでもかと味わわせる。
そして、現実は「貯水タンクから水が溢れ出た」というオチまでつける。
ああ、実際に「言葉の海」に入るとこんな感じなのか。


純白奇劇団

 ゆーこねえさん、ぶっ飛んでる。
こらまた、「第七インターチェンジ」が「品川心中」で
演った「落語・改」をさらに過激にして「お血脈」という
演目を演る、という趣。

 いや、まあ、ゆーこねえさんって「女王様」気質があるねんな。
出し受けする関係が長く続いてはいるが、そんな一面見せたことない。
さらには「出囃子」が「鼠の国」の「電光行進」で掛かるあの曲ですわ。

 そうして、噺家が座布団の前に座り、手ぬぐいを傍らに、
扇子を座布団の前において「結界」を作るか、と思いきや
いきなり子供劇団とのなんだかんだというマクラに入り、
「身体」を使ったくすぐりから気がつけば本題に入る。

 落語とは「結界」を自由自在に動かすことが芸の売りとは聞いたが、
ここまで「結界」をぶっ壊して、落語の「お血脈」という演目を使い
現代が抱えている「罪」や「毒」を混ぜて加えて、徹底的に
カオスにして「遊びまくった」らこんな具合になりました、と
顔中、体中絵の具まみれ、汗まみれで言われると、何も言えない。

gojunko

 最近、「形」というものに対して考察を深める機会が
ラベルの「ボレロ」を通して持つことができた。

 まずは「日本舞踊」と「ボレロ」のかけあわせ、に衝撃を受け、
次はこの元ネタである「野村萬斎+日本舞踊」と「ボレロ」の
かけあわせをYouTubeで見て、そうなると「シルヴィ・ギエム」の
「ボレロ」、とうとう仕舞いには元版たる「マイヤ・プリセツカヤ」の
「ボレロ」にまで行き着いてしまった。

 こうやってひと通り見て、感じたことは音も、身体言語も
「限られたパターン」の組み合わせで見せて、効かせて、感じる。
ポイントはただ一点、「何か」と「常に接合」するということ。

 「演劇」だと「物語」に接合することになるのか。
そうなると「誰にも愛されなかった」が
この炎のような「運命」を引き受けて生き続けなければいけなかった
「女の一生」という新しい解釈としての「ボレロ」が生まれた。

 まさしく、曽田正人の「昴」、宮本すばるとプリシラ・ロバーツの
「ボレロ」を通して「魂レベル」で「邂逅する」感覚が
「腹違いの姉妹」を通して伝わり、最後は「カノン」を重ねて
「不幸な一生」を生き抜いた「魂」を浄化させやがった。

 がだ、流産、死産はデリケートな領域、自分も上の妹に
降りかかった出来事をうっかり思い出し、吐きそうになった。


 諸事情により、本戦は見ることができなかったが、
え?最後の最後で意外な展開になってしまった。

 開会式に抽選で決めた順番の綾?客層の違い?
違う訴求力の差なのか?・・・もやもやは残る。

 正直、今年はwith a clinkが獲るか、と思ってた。
そしていけだみきから堂々「暖簾分け」をして
本格的に「広い世界」へ戦いに行く、そう信じていたのだが。
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