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こわせ貯金箱 第2回公演「ラッキーフィッシュと浮かぶ夜」

運だ、ツキだ、と言っている時点で実は自分を喪っているのかも。

 久々の演劇だ。
紙工作のデータ集めに名を借りて、これまた久しぶりに広島、松山と
サッカーを見に行った以外、紙工作ばかりして世の中にウトウトとしていた。

 自分自身が世の中にウトウトとしていた時、ショーマンシップが
クラウドファウンディングだなんだと本拠地甘棠館の改修運動を始め、
結果、無事改修が終わり、という話は聞いていてもウトウトしすぎて行かなかった。

 初めて新しい甘棠館に行くと、驚いた!
より一層マルチアクセス感が強くなった!
軽量鉄骨のイントレ板を使って自由自在に、
しかも安全かつ頑丈な段組が組めるようになり、
更に安全かつ頑丈な釣り物バトンがいい塩梅で張り巡らされている。
・・・安全かつ頑丈な釣り物バトンのおかげで上の段ほど照明機材と
頭がぶつかるところはあるが。

 さて、この戯曲はノアールというモデル事務所に以前卸していたものを
今回はガラパの若いもんと新しい表現の場所を求めて飢えている
違う事務所というか、フリーのモデルさんやアイドル、あとなんだかんだを
掛け合わせた面子が演る、という趣向。

 自分が見るにこの戯曲は村上春樹の「羊をめぐる冒険」をベースにした
「運やツキ」を巡る考察が物語の核心。
この核心に「喪う」ことから生まれる悲しみを村上春樹はそのまま悲しみとして
表現していたが、川口大樹は悲しみを「コメディ」という糖衣にくるんで表現した。

 ノアールがやったときはあくまでも演劇というスタイルを崩さず、
見手の視点をなるべく崩さず、板の上で起こっている出来事を丁寧に張り合わせて
物語の核心を明らかにする手法に対して、今回のこわせ貯金箱は
板の上で起こっている出来事を同時多発させて見手の視点をこれでもか、
これでもか、とずらしつつ、同時多発させた出来事の切れ端同士を絶妙に
つなぎ合わせて、気がついたら物語の核心が見えていた、という手法で見せた。

 この手法を始まりと中頃にオリジナルの生歌が入り、
甘棠館ガラパスタイルの進化系というフリーアクセスの表演空間で
予測不可能な演者の出入り、と来たら、コンテンポラリー演劇なんだよな。

 コンテンポラリー演劇になっていたからなのか、
自分が紙工作ばかりしてウトウトした結果、見えてきたことなのか、
正直良くわからないけれど、生きていることを運だとか、ツキだとか、
実力だとか言っている時点で、わたしはわたしの人生を誰か知らない人や物に委ねて
委ねた結果、振り回されてわたしがわたしを喪っているのかもしれない。

 そして、喪った結果、わたしをわたし自身が異物と認識しちゃって、
というか、叩かれ、けなされ、否定され続けていたら異物と認識することで
自分で自分を否定していた、大事にできなくなった。
ということに改めて気が付かされる。

彗星マジック「ポストグラフ」

フィジカルを効かせた「生きて帰りし」物語。

 小さいグリッドを平面、立体ともに設定して、演者の生身の体と、こころの持つ
全力を出させるように仕向ける「ファンタジー」が売りだ、ということは
INDEPENDENTという「一人芝居」という形態でのショーケース公演でよくわかった。

 がだ、あくまでもショーケースはショーケース、きちんとした形できちんとした尺の
公演を見て、ストロングポイントと(できれば)ウィークポイントを見定めないと
この劇団の公演を「見た」という感覚と記憶ができてこない。
ショーケースだけだったら、「あ、本公演見てみたい」という感覚と記憶しかない。
・・・これが前説で「見たことある人手を挙げて」というくだりで手を挙げきらなかった主な理由。

 そんなこんなはさておいて、フランス革命から王政復古、ナポレオン戦争、
そしてフランス再革命により、フランスから王政は完全に排除された、という
「ラ・マルセイエーズ」を地で行く血腥いお話が基本線。

 この基本線に印象派の画家というキャラクターが持つ「不器用さ」、
さらには女性は個々人の能力や人格を認めてもらえず、
一山いくらでまとめられていた歴史の打開(これもまた別の意味で革命だ)を混ぜて
劇団の売りである座椅子の座面正方形面積分の平面と黄金比率の長方形ぶんの体積という
小さいグリッドを設定して、その中で全力を出させるように仕向けるのが今回の趣向。

 故にものすごくフィジカルが強く、コンテンポラリー演劇の進化系を見た、
と言いたいが、話が進めば進むほど、既視感というやつがじわりじわりとやってくる。

 ・・・これって、小倉のリバーウォークに両方共ある北九州芸術劇場と北九州市立美術館分館が
最近数年コラボしてやっている「所蔵美術品と演劇の掛け合わせ公演(求む、正式名称)」を
思いっきり演劇側に寄せているぞ、という発見。

 この企画、北九州市立美術館が所蔵しているコレクションの中から毎年一枚の絵なり
一体の彫刻、という立体物を飛ぶ劇場の泊さんと美術館学芸員がセレクトして、
作品のなんだかんだをイメージして作った戯曲を一本美術館分館で演り(60分程度の尺)、
その後美術館学芸員と泊さんがギャラリートーク(15分程度の尺)のちに
客席部分の裏にレイアウトされた絵画現物を鑑賞する(最大30分の尺)というパッケージ。

 この企画、絵画等と演劇というものが「知的冒険エンターテイメント」に化けるんだな、
「知的冒険エンターテイメント」に化けたら「物事を考えるための引っ掛かり」が
観手に生まれるように仕向けている。

 その仕向をギャラリートークと現物の絵画鑑賞の尺分を演劇として「延長して」、
板の上で繰り広げる人物像とキャラクター像を高い精度と密度でデッサンし、
アーティストもそうだけれど、人間生きていく、ということは「私自身のより良き理想の線」という
ものを書きたいと追い求めるのが性分、さらに「私自身のより良き理想の色や光のあり方」も
追い求めているんだ、ということを熱量高く見せていた。

 こういう縁をもとにして、どんどん広がってくれたらありがたいのだが。

劇団チョコレートケーキ「ドキュメンタリー」

「因果応報」を何らかの形で受けておかないと、わたしたちは先に進めないのか?

 そういえば、この劇団に岐阜の中津川で「福岡においでよ」と言ったことを
キびるフェス、キックオフイベントで薄っすらと思い出す。
まあ、福岡初登場で、福岡に薄っすらと「ゆかり」のある、しかも仄暗い「ゆかり」を
お話にして持ってくることが、正直すごい。

 というか、この板の上で語られている「事実」にわたしは思わず憤怒して、
1990年、私が高校二年の時献血を始めた、というか入り口は献血車が
直接学校に来て、それからぽんプラザホールの近く、今はドラッグストアモリか
牛丼の吉野家が入っているところに献血ルームがあって、そこでは
お菓子も食えるし、ジュースも飲める、いい時間潰しだ、という動機だったけれど。

 そういう動機から、「あら、あなた結構動脈太いのね、だったら成分献血行ってくれ」と
言われ、あのころは出して、戻してのサイクルが異様に長くて、長めの洋画一本まるまる
見ることのできる時間だったけれど、今は機械が良くなって、テレビ見流すかなにもしないで
ボーツとしたほうが(以下略。

 で、成分献血をやると全血献血200ミリで献血回数1回カウントが3から5回カウントになって、
気がつけば居住地の役所から銀色有功章やら金色有功章が宅配便で送られて、
家に飾るしか使いみちのない分厚い盾だから速攻押し入れにしまって、
どこへ行ったかわからない。

 そういう事があったから1995年、新しい制度での顕彰制度では直接赤十字から
ガラス製のちっちゃいお猪口、50回が銀色がかかった青、100回が金色がかかった
黄色をもらうようになったのだ。

 こういうふうに「私と献血」というもう一つの物語をじわじわと思い出すくらい冒頭部から、
老医師が登場してボツりポツリと語りだしたとき、生まれた空気感は元本の
森村誠一氏が書いたノンフィクション小説ではなく、遠藤周作氏が書いた
この福岡、更にいうと九大病院で起きた出来事を書いた「海と毒薬」の
流れを想起させるような時間の流れ、空気の漂いだった。

 というか、老医師が森村誠一氏のノンフィクション小説をくずかごに入れる場面が
妙にしっくりきて、語り口と佇まいが「海と毒薬」の勝呂医師をなぜだか想起してしまう。

 更にいうと、内部告発者のプロパーさんが「海と毒薬」の主人公、結核からの肺気泡を
治しに勝呂医師のもとへ行く男、フリーのノンフィクションライターが遠藤周作本人、
そのぐるぐる回りによって、「物の本質」がくっきりはっきり見えてくる。

 このお話の裏テーマは「血液」をめぐる「日本赤十字社」と「ミドリ十字=731部隊」の
今しがたまで続いていた暗闘の歴史だったのかもしれない。

 というか、赤十字が血液事業に乗り出したのはミドリ十字=731部隊より、どうも遅かったらしい。
おまけに、「社会貢献」と「銭金」を秤にかけりゃ、「銭金」が文字通り重たい世の中、
万が一自分や家族、親類縁者が輸血必要時に面倒がなくなるだけ、という半ば保険に近い
赤十字のやりかたではミドリ十字=731部隊にはかなわない。

 がだ、ライシャワー氏という「日本とアメリカをつなぐ大事な存在」が突然刺される、
という「テロ行為」から当人に輸血された血液がミドリ十字=731部隊が供給した
血液だったことがもとで肝炎になっちゃった事件をきっかけに「黄色い血追放キャンペーン」が
始まり、輸血用の血液はミドリ十字=731部隊は関与しないで、と赤十字、喧嘩状を叩きつける。

 そうなるとミドリ十字=731部隊は輸血用の血液からは手を引くが、血友病患者用の
血液製剤というビジネスモデル構築を裏で進め、確立と同時に預血事業から手を引く。

 その後どうなったか、をガチのドキュメンタリーとして落とし込んだのがこの演目。

 一見、不完全燃焼に思えるエンディングだが、1985年以降の献血史、とくに
物語が語られた翌年に成分献血が始まり、1989年、地道な調査の結果
NNNきょうの出来事から始まった一連のキャンペーンからミドリ十字=731部隊が
血液事業全体への関与ができない、というか罰則を含んだ禁止という処分を受け、
2002年に法制化という厳罰となり、2012年国有化、となれば、告発も意味があった。

 がだ、人間って、じぶんも、そうだけれど良い行いの種と同時に悪い行いの種も蒔いている。
そして、良い行いの種からの稔りは他者や異者に自慢したがるが、刈り取らなきゃいけない
悪い行いの種からの稔りは自慢どころか見られると困る急所に化け、他者、特に異者に
刈り取らせようとしている。

 刈り取らせようと無理やり働かせた人間は恨み骨髄、晴らそうとやっきなことを思えば、
北方四島問題やら何やらの日本という社会が抱えている全問題は人間が人間である以上
解決は不可能に近い、解決できる道は、自分自身で悪い行いの種からの稔りを
ヤブから蛇という脅しに負けず、これでもか、これでもかと刈り取りきって、焼き尽くすこと。

 

柴田智之一人芝居「寿」

「この今まで、どう生きてきたか」の集合体が人類の歴史。

 ・・・とは言うものの、歴史自体には理由なんてないし、起こったことに対する
意味なんて、何にもない、ただ単に起こった「結果」を「演じている」、ただそれだけ。

 という空気が開演前の表演空間から漂っていた。
なんていうか、シンプルに「老人介護施設の現実」を見せてもらうと
「人それぞれに違った人生があって、この人生をまるまる引き受けること」が
いわゆる人権の尊重や尊厳を守ることにつながる、とはいうけれど。
(自分がやられて嫌なことは嫌だろ?)
 
 現実は自分がやられて嫌なことを他人に押し付けて笑いながら生きてた人間も、
自分がやられて嫌なことを他人から押し付けられて泣きながら生きてきた人間も
同じ老人介護の施設にいて、おんなじように下の世話や寝かしつけ、食事の介護を受けている。

 どっちがどっちかよくわからんが、望んでいたことが現実と違う、と
怒って、けれどもどう怒っていいか、というか自分が一体どうしたらいいかわからなくて、
気がつけば介護者、支援者との関係がおかしくなって、介護者、支援者の人権が侵害され、
尊厳が破壊されて、不安定な空間が生まれる。

 その中で、尊厳を保っている一人の老人との交流を通して自らの尊厳を取り戻す、
というのが前半部、火葬場の炉前、自動的に燃やされるところまで運ばれていく様子を
想起してしまいそうなコンテンポラリーダンスというか舞踏を挟んで、この老人が
どう生きてきて、どう尊厳を失い、取り戻していったか、という後半部へとつながる。

 学校の先生をしたのは戦後だよな、本当は特攻隊に入って、死ななきゃいけなかったのに、
そういう家庭の立場、立ち位置だったのに、飛行機に乗るには背が低すぎて、
潜水艇に乗る、と決まれば大きい病気をして乗る(死ぬ)ことが叶わず終戦。

 ・・・だから、周囲は「死んでくれりゃいいのに」と戦争に行けなかった人を陰で言い募り、
逆に「死んでくれてありがとう」とも戦争で死んでいった人を陰で言い募る。

 その人がいると邪魔なので、戦争や自然災害で死んでいなくなれば、都合がいい。
という思考パターンが70年以上私達の心の中に巣食っているから、ふうっ。

 生きているうちに良い結果しか回ってこない人間も、悪い結果しか回ってこない人間も、
ああだ、こうだ言っても、何にもならないし、何にもならないことを重く考えても私の身が持たない。
こういうふうに根っこだけ見て自分を生きてれば・・・なんとかならねぇよ!

下鴨車窓「微熱ガーデン」



人間は「良心」に縛られた「動物」である。

 下鴨車窓、というか、田辺剛という人は効率的に「演劇活動」を持続するために
ITという最新テクノロジーをこれでもか、と使えているから、正直すごいと思う。
在庫を最小限にするために「紙に印刷され、製本された」戯曲集や上演台本を発売せず、
(今流行りの)アマゾン電子書籍化、公演アンケートもQRコード読み込ませてスマホ、
タブレットから回答することができる。

 ということは演者やテクニカル(スタッフ)に手渡される台本は紙じゃないのか?
アマゾンキンドルを演者やテクニカルに渡して、これで台本読んでね、だとしたらすごい。
そして、公演チケットの予約から決済の流れで紙チケットを使用せず、クレカ決済の他にも
携帯電話のキャリア決済に対応したシステムから観劇後のサンキューメールからアンケートに
誘導する流れができたら・・・怖くなってきた。

 けれども、板の上で繰り広げる物語には恐ろしいくらいに人間の匂いがする。
今回は生きていくお金を稼ぐために「大麻」というか「脱法ハーブ」の栽培に
「うっかり」手を染めてしまった女の子の日常。

 箱の中に入り、よーく見てみると、私がかつて読んだことのある「あ・ジャ・パン」という
小説のいち場面、大阪鶴橋の銭湯跡に迷い込んで、朝鮮豆もやしの密造工場に
出くわした、ということを思い出させるくらいギュッとした空間、暗くてヌメッとした
なんとも言えない空気をほぼそのまま演劇空間に起こすことができている。

  この演劇空間で繰り広げられるは、「良心に沿って生きる」と「良心に背いて生きる」という
相反する生き方、「善意」と「悪意」が糾える縄のように複雑に絡み合って、
気がつけば希望が絶望に化け、孤独は深まる。

 孤独が深まれば深まるほど栽培する「作物」の質、量ともに向上し、
稼げるお金もより多くなっていく、けれども、生活は「作物の栽培」と「学業」に
全部持っていかれて、狭い空間で食事をし、休息する。

 仕事自体は合っているけれど、働き方が孤独を誘発すると、気が狂いそうになる。
気が狂いそうになると、隣人の孤独な老人に対して、「良心と善意」を持って応対する。
・・・それが「規則」や「マニュアル」に反したことであっても。

 この「良心と善意」が結局は「違法植物の栽培」から離れるきっかけになるのだが。
というか、きれいな方の女の子が「良心と善意」から離れたところに自らを置いたことが(以下略。

 ・・・私が演劇の仕事で宮崎にいったときであった女の子とほぼおんなじ人生だな、と
うっかり思い出して、ここ数年連絡や音沙汰が無いけれど、生きているだろうか?
そんなことまで思い出した。
プロフィール

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Author:itumo25254you
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